ホーム > 静岡国際オペラコンクール > コンクールについて
三浦環は、明治17年(1884)に東京の京橋で、静岡県城東郡下朝比奈村(現 御前崎市)出身の父柴田熊太郎と城東郡小沢村(現 菊川市)の永田家から嫁いだ母登波の間に生まれました。幼い頃から、箏、長唄、日本舞踊などの芸事に豊かな才能を示し、美しい声の持ち主としても評判でした。16歳で東京藝術大学の前身、東京音楽学校に入学、明治36年(1903)、19歳で日本人の演じた最初のオペラ「オルフォイス」の主役に抜擢されました。その後、帝国劇場の専属プリマドンナとしても活躍しました。
大正2年(1913)、遠縁の帝国大学医学部助手(医学博士)三浦政太郎と結婚。しばらく、三浦の故郷、掛川で生活しました。大正3年(1914)、夫とともにドイツに留学しましたが、第1次世界大戦が勃発したため、ロンドンへ逃れ、大正4年(1915)、ロンドンオペラハウスで、「蝶々夫人」の主役を務め、大好評を博しました。作者のプッチーニ自身からも「マダム・バタフライはタマキ・ミウラのために作られたようなもの」と絶賛され、アメリカやイタリアで『蝶々夫人』のプリマドンナとして大活躍しました。大正11年(1922)、1回目の帰国をしましたが、その際、浜松をはじめ66回の「三浦環独唱会」を開催し、東京市内ではレコード8万枚を売り上げる記録的なセールスとなりました。
その後、再び海外を中心に公演活動を行い、昭和3年(1928)、45歳の時には、カーネギーホールで「三浦環独唱会」を開催しました。昭和10年(1935)、イタリアのパルレモでの『蝶々夫人』2000回目の公演を終えると、環は日本に帰国し、歌舞伎座での『蝶々夫人』の日本初演など、国内で精力的にオペラなどの公演活動を行いました。しかし、次第に戦時色が強まり、山中湖畔に疎開、そこで母登波を亡くしました。戦争が終わり、再び演奏活動を始めましたが、体調を崩し、昭和21年(1946)5月26日、東京帝大付属病院で永眠しました。享年62歳でした。
参考文献 『考証 三浦環』(田辺久之著)