わが国最初のプリマドンナ 三浦環 わが国最初のプリマドンナ 三浦環

静岡国際オペラコンクール」は、
日本最初の国際的プリマドンナ
三浦環をたたえ、
没後50年にあたる1996年から
3年毎に開催しています。
20世紀前半、世界中の人々をその歌声で魅了した日本最初の国際的プリマドンナ、三浦環。彼女の2,000回にも及ぶ『蝶々夫人』の上演記録は未だ破られていない。また数多いバタフライ・シンガーで、作曲家プッチーニ自身が「『マダム・バタフライ』はマダム・ミウラのために作られたようなもの」と絶賛した歌手も彼女をおいていない。
環は1884年2月22日、東京に生まれる。幼少より箏、長唄、日本舞踊などを習い、これが後の「蝶々夫人」主演に役立つ素地となった。16歳で東京藝術大学の前身、東京音楽学校へ入学。在学中より環の才媛ぶりは光り、1903年には日本初のオペラ公演『オルフォイス』の主役を弱冠19歳でつとめた。さらにこの後、帝国劇場の専属プリマドンナとしても活躍した。
1913年、三浦政太郎と結婚し、翌年、夫は医学の勉強、環は声楽家に師事するためベルリンに渡ったが、第1次世界大戦が開戦したため、2人は急遽、ロンドンに移動した。1915年、環はロンドンオペラハウスで『蝶々夫人』の主演を務め、大好評を博した。同年環は、ニューヨークへ渡り、その後の16年間、アメリカを中心に世界各国で『蝶々夫人』を演じ、絶大な人気と評価を得た。そして1935年、イタリアのパレルモでついに『蝶々夫人』出演2,000回の偉業を達成。これを機に国際舞台から引退、帰国の途についた。
帰朝後も環は、日本各地でオペラやリサイタルなどに出演していたが、第2次世界大戦の戦火が激しくなるにつれ、環の音楽活動もままならなくなっていった。やがて環の体は病魔に蝕まれていく。1946年3月の日比谷公会堂が最後の舞台。看護婦に支えられて歌う真摯な姿は聴衆の心を打った。カーテンコールで環は思いのたけを込めて、聴衆に向かってひれ伏したという。
1946年5月26日永眠。享年62歳。音楽一筋に生き、天分の才能と強運に恵まれた三浦環。しかし彼女を知る人々は口を揃えて言う。「環は何よりも努力の人であった」と。
参考文献/田辺久之著『考証 三浦環』(近代文藝社)

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三浦環本人

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三浦環の関連品等

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