三浦環の軌跡

三浦環は、世界に認められた最初の日本人オペラ歌手と呼ばれています。世界各地でオペラ「蝶々夫人」の主役として2,000回以上舞台に立ち、作曲者プッチーニから「マダム・バタフライは、彼女のために書かれたようなもの」と絶賛されました。両親と夫(政太郎)が静岡県出身で、環本人も一時期静岡県で暮らしました。
静岡国際オペラコンクールは、静岡県ゆかりのプリマドンナ三浦環をたたえ、没後50年にあたる1996年から浜松市で開催しています。

三浦環ゆかりの地

旧東京音楽学校奏楽堂 音楽ホールの写真

旧東京音楽学校奏楽堂
音楽ホール 東京都台東区

環が、日本人による初のオペラ公演としてデビューを飾った由緒ある音楽ホールが、旧東京音楽学校奏楽堂内にあります。
この奏楽堂は、東京藝術大学音楽学部の前身、東京音楽学校の校舎として、1890年に建築され、日本における音楽教育の中心的な役割を担ってきました。また東京音楽学校は、環の母校でもあります。

正観寺 三浦政太郎墓所の写真

正観寺(しょうかんじ)
三浦政太郎墓所静岡県袋井市

環の夫、三浦政太郎の墓は袋井市の正観寺にあり、環が政太郎の墓を訪れた際に、環は墓石を抱いて泣き崩れたといわれています。
政太郎は、掛川市出身の医学博士で1924年に緑茶にビタミンCが豊富に含まれ、保存状態によっては2、3年間保有されることを発見しました。この発見は、海外への日本茶の輸出拡大をもたらし、その後の緑茶研究の礎となりました。

環直筆の声の碑の写真

環直筆の声の碑
静岡県菊川市

環の母、永田登波の生家(菊川市)には、環直筆の碑が設置されています。

寿徳寺の写真

寿徳寺(じゅとくじ)
山梨県山中湖村

生前の遺言に基づき、環は、母・登波とともに山梨県山中湖村にある寿徳寺に葬られています。