~今月の作曲家~「ボーイト」(2023年2月)

【ふじやまのぼる先生の作曲家紹介(14)】

ボーイト

アッリーゴ・ボーイト(Arrigo Boito)は、1842年2月24日に、パドヴァに生まれました。「作曲家」という枠にはまりきらない多くの肩書を持った、オペラを語るうえで欠かせない人物です。当時はロンバルド=ヴェネト王国というオーストリア帝国を形成する国の1つでした。王さまは、オーストリア皇帝が兼ねていました。

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アッリーゴ・ボーイト
(1842-1918)
シルヴェストロ(1802-1856)は画家で、肖像画や細密画を得意としていました。母ジュゼッピーナは、ポーランド出身の貴族の未亡人で、ポーランド名をユーゼファと言いました。二人は愛情というよりは、経済的理由で結婚したようですが、二人の間には、建築家として知られたアッリーゴの兄であるカミッロ・ボーイト(1836-1914)がいました。ちなみにカミッロはローマで生まれています。
両親の離婚に伴い、母に育てられたボーイトは、ヴェネツィアで初等教育を受けた後、1835年からミラノ音楽院で、アルベルト・マッツカート(1813-1877)に師事し、頭角を現します。ミラノ音楽院ではヴァイオリン、ピアノ、作曲を学び、カンタータ作曲においてはその作詞も手掛けています。また生涯の友となる指揮者・作曲家のフランコ・ファッチョ(1840-1891)や、音楽家・イギリス王立音楽院の教師のアルベルト・ヴィセッティ(1846-1928)とも、この頃知り合っています。
1861年ファッチョとともに奨学金を得て、パリに学びます。パリでは、ジョアキーノ・ロッシーニ(1792–1868)、ヴィクトル・ユーゴー(1802–1885)、エクトル・ベルリオーズ(1803–1869)、ジュゼッペ・ヴェルディ(1813-1901)の知遇を得ます。
1862年ロンドンで開催の万国博覧会で演奏するため、ドイツ、フランス、イギリス、イタリアの作曲家に祝典曲が委嘱されました。当初ロッシーニがイタリア代表として候補になりましたが固辞したため、ヴェルディが代わりに作曲することになりました。この時できた曲が「諸国民の賛歌 (Inno delle Nazioni)」です。この歌詞を書いたのが弱冠二十歳のボーイトでした。
1862 international exhibition 01
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1862年ロンドン・サウスケンジントンでの万国博覧会の様子
1862年ミラノへ戻ったボーイトは、「スカピリアトゥーラ」と呼ばれる詩人、作家、音楽家、画家、彫刻家が含まれていた革新的な知的集団に属し、辛口の批評や詩を発表していました。スカピリアトゥーラという用語は、フランス語の「ボエーム(ボヘミアン)」に相当するイタリア語で、直接的な意味は「髪を逆立てた、蓬髪」です。その活動の中でボーイトは、ヴェルディを怒らせるような発言をしてしまいます。彼らのモットーは、「未来の芸術」のために、貴族趣味や伝統といった「過去の芸術」に反対するというものでした。その「過去の芸術」に、ヴェルディも含まれてしまったのです。ヴェルディは、ボーイトのことを「外国かぶれの新しものがり屋」としか映らなくなってしまいます。
そんなボーイトとファッチョが、「未来の芸術」を目論んで制作したのが「アムレート」でした。これは、シェイクスピアの悲劇「ハムレット」をボーイトがオペラ用に台本を書き、ファッチョが作曲したものでした。1865年5月30日、ジェノヴァのカルロ・フェリーチェ劇場での初演は、まずまずの出来でしたが、音楽よりも台本の素晴らしさに話題は集まります。ちなみにファッチョ自身の指揮で、1871年2月12日にミラノ・スカラ座で行われた改訂版「アムレート」の上演は、初演でもアムレートを歌った歌手の不調により完全に失敗に終わり、2014年まで上演されることはありませんでした。1866年、ボーイトとファッチョは、オーストリアに対する独立戦争に志願兵として参加しています。
Francofaccio
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フランコ・ファッチョ
ボイートの生涯の友人)
ボーイトも自作のオペラ創作へ熱意を燃やし、ゲーテの「ファウスト」をもとにした「メフィストーフェレ(メフィストフェレスのイタリア語読み)」を作曲、1868年3月5日ミラノ・スカラ座で初演します。しかし膨大な演奏時間に加え、稚拙なボーイトの指揮も相まって、多くのリハーサル(一説には56回!)を要したにもかかわらず、完全なる失敗に終わり、2回しか上演されませんでした。それも2回目の上演は2つの部分に分けられ、連続した二晩で上演されたとか。「ワーグナーの亜流」との批判もありました。
そこで、内容を大幅に減らし、バリトンの役だったファウストをテノールへと変更しました。改訂版は1875年10月4日ボローニャで初演され、すぐに受け入れられました。この7年の間に、聴衆がワーグナーを受け入れるようになったということも大きな要因かもしれません。ちなみに、イタリアでワーグナーが最初に上演された街はこのボローニャで、1871年に「ローエングリン」でした。「メフィストーフェレ」については、後で詳しくお話ししますね。この間ボーイトは、ワーグナーの「リエンツィ」をイタリア語上演するための歌詞を書いています。
ボーイトの才能を買っていた人物の一人にジューリオ・リコルディ(1840-1912)がいます。ジューリオは台本作家としてボーイトに話を持ち掛けます。そして出来上がったのが、アミルカーレ・ポンキエッリ(1834-1886)のオペラ「ラ・ジョコンダ」です。ボーイトは、「アッリーゴ・ボーイト」ではなく、「トビア・ゴッリオ」として台本を書きました。「Arrigo Boito」を並べ替えて「Tobia Gorrio」としたのです。アナグラムをペンネームにしたのですね。「ラ・ジョコンダ」は、1876年4月8日に、ファッチョの指揮でスカラ座において初演され、好評を得ています。
他にも、アルフレード・カタラーニ(1854–1893)やジョヴァンニ・ボッテジーニ(1821–1889)などにも台本を提供しています。また、ワーグナーの「ヴェーゼンドンク歌曲集」「トリスタンとイゾルデ」、ウェーバーの「魔弾の射手」のイタリア語上演用台本を手掛けています。しかしボーイトの名を不朽のものにしたのは、ヴェルディへの台本提供でした。
長年の確執によりヴェルディとは溝ができてしまっているボーイトに対して助け舟を出したのは、やはりジューリオ・リコルディでした。時は1879年。ジューリオは「チョコレート計画」を発動させます。以前からシェイクスピアの「オセロー(イタリア語ではオテッロ)」をオペラ化したいと思っていたヴェルディですが、この時70歳を目前としていました。ジューリオは、ヴェルディの妻であるジュゼッピーナ(1815-1897)を巻き込んで、ボーイトの話をそれとなくヴェルディにします。ジュゼッピーナも興味を示します。知らん顔のヴェルディですが、ボーイトによる「オセローの台本化」の話をちらちらとされ、ジューリオが他の作曲家に依頼するのではないかと気が気ではありません。本棚からシェイクスピア全集を引っ張り出してくる始末。「アイーダ」のイタリア初演の指揮者であったファッチョも加わり、「ボーイトは教養があって、芸術家としても才能も充分」と持ち上げる。そんなこんなで、まず「オテッロ」の草稿をボーイトに書かせ、それを読んだヴェルディはいたく感動させられます。「でも、いきなりの初仕事がオセローでは」と心配する(ふりをする)ジューリオ。そこで白羽の矢が立ったのがオペラ「シモン・ボッカネグラ」の改作でした。
Giuseppi Verdi by Ferdinand Mulnier c1870
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ジュゼッペ・ヴェルディ
(ボーイトと長年の確執)
 
1857年にヴェネツィアで初演され、評判の悪かった「シモン・ボッカネグラ」。ヴェネツィアはヴェルディにとって鬼門で、1853に初演した「椿姫」でも手痛い失敗を喫しています。しかし「椿姫」には絶対の自信を持っていたヴェルディでしたが、こと「シモン・ボッカネグラ」に至っては、自身がまだ熟しておらず、表現したいことが音楽に十分生かされていないということを感じていたらしく、いつの日か改定したいと考えていたようです。
改定についてボーイトは、これまでのただ歌いやすく、筋立てに必要なために存在する語句を切り捨て、文学的な要素を含みつつ歌い手にも負担の少ないものに書き換えていきます。この仕事ぶりにヴェルディも感嘆し、長年の溝も埋まり、ボーイトは反目を共感に変え、命令を提案として受け入れていきます。当初少しの手直しで済むと思われた作業は、最終的に大掛かりな改作作業となりました。
1881年3月24日、スカラ座に於いての改定初演は大きな成功を得ます。この公演で、シモンを歌ったヴィクトル・モレル(1848-1923)は、その後の「オテッロ」のイアーゴファルスタッフを創唱する歌手となり、ガブリエーレ・アドルノを歌ったフランチェスコ・タマーニョ(1850-1905)は、オテッロを創唱しました。指揮はもちろんファッチョが引き受けました。
この共同作業はヴェルディにも自信を付けたのでしょう。そして、「チョコレート計画」は本格的に軌道に乗ります。そう、オセローの肌の色になぞらえたこの計画は、ゆっくりと、しかし着実に進められます。そして、1887年2月5日、スカラ座で行われた「オテッロ」初演は、空前の大成功を収めることになります。
続くヴェルディ最後のオペラ創作では、駆け出しのころ手痛い失敗を被っていた喜劇に挑戦。「オテッロ」と同じくシェイクスピアの原作によるボーイトの台本で「ファルスタッフ」を手掛けます。1893年2月9日に初演されたこの作品は、現在でも玄人好みのオペラということもあり、「オテッロ」ほどの成功は得られませんでしたが、みな巨匠の最後のオペラということがわかっていたため、敬意を持って迎えられたと言います。
ところで、ボーイトの作曲家としての創作はというと、ワーグナーの「ニーベルングの指環」をしのぐ作品を目指し、長年温めていた主題がありました。それは1862年頃から台本を書いていたオペラ「ネローネ」です。これは、暴君で知られる皇帝ネロの話で、意外にもネロが出てくるオペラはたくさんあります。1875年に作曲が開始され、ヴェルディもその主題に興味を示し、肯定的な意見を述べたと伝えられています。その後、台本は1901年に出版されます。ジューリオ・リコルディの後押しもあり、1912年冬までをめどに、スカラ座での初演計画も進んでいました。しかし、1912年にジューリオの急死を受け初演は延期。急に自信を失ったボーイトは、完成していた部分にも手を入れる始末。結局、推敲に推敲を重ねる完璧主義であることや、作曲の筆の遅さのため、生前には完成させることができませんでした。出版された台本は、全5幕構成ですが、完成されたのは第1幕から第3幕までで、第4幕は、スケッチの段階でとどまっていたところもありました。そこで、作曲家のアントニオ・ズマレーリア(1854-1929)とヴィットリオ・トンマジーニ(1879-1964)が補完し、全4幕のオペラとして1924年5月1日、スカラ座で初演されました。初演は大成功でしたが、「メフィストーフェレ」と違って、劇場にとどまり続ける作品ではなかったようです。
「ファルスタッフ」初演後ボーイトは、ヴェルディの聖歌をパリで初演する手助けをし、初演の様子をヴェルディに報告しています。また、著作権保護についても尽力し、40代にして恋に落ちたりもしています。しかし、1903年に最初の狭心症の症状が現れます。その後上院議員に選ばれ、1915年には、第一次世界大戦に連合国側で参戦することへの投票を行っています。これにより、振り回されたのが、以前お話ししたプッチーニの「つばめ」ですね。
プッチーニ作曲「つばめ」La Rondine(オペラコンクールブログ「トリッチ・トラッチ」)
https://www.suac.ac.jp/opera/blog/2023/01/00174/
 
1917年、第一次世界大戦の前線を訪問し、その後狭心症が悪化1918年6月10日に、ミラノで亡くなりました。

豆知識「アッリーゴ・ボーイト音楽院

ボーイトは、パルマの音楽院の院長を務めていたことから、現在パルマ音楽院は「アッリーゴ・ボーイト音楽院(Conservatorio di Musica Arrigo Boito)」と呼ばれています。第7回のコンクールファイナリスト大音絵莉さんの出身校でもあります。
[インタビュー&アリア演奏]大音絵莉さん(ソプラノ・第7回入選)
(ふじのくにオペラチャンネル)
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ボーイトのオペラ

「メフィストーフェレ」

ボーイトの唯一レパートリーとして残ったオペラです。とはいえ、2つのうちの1つが残ったのですから、すばらしい結果かとは思います。原作はゲーテの「ファウスト」。このオペラの特徴は、「ファウスト第2部」まで取り入れている点です。そのため、初稿は膨大な上演時間を必要とし、失敗に終わったとお話ししましたね。同じゲーテを原作とする、シャルル・グノー(1818-1893)の「ファウスト」と比較してみても面白いですね。
あらすじ
舞台:16世紀ドイツ、古代ギリシャ
プロローグ 天上界
 天使たちが神を讃える歌を歌う中、悪魔メフィストーフェレ(以下メフィストと記す)が現れる。人間のくだらなさに、悪の道に引きずり込む気にもならないメフィストは、神の提案する老博士ファウストを、誘惑できるかという賭けを提案し、神もこれを受け入れる。
第1幕第1場 復活祭の日曜日 フランクフルトの街角
復活祭の陽気にあふれた街に、ファウストが弟子を連れて現れ、その様子を見たファウストは、春の訪れを喜ぶ。灰色の服を着て頭巾を深くかぶった修道士が歩き回っている。その様子を見たファウストは何かわからぬ不安に駆られ家に帰る。修道士も後に続く。
第1幕第2場 ファウストの書斎
ファウストは、アリア「野から、牧場から」を歌い、物思いに耽り聖書を開き瞑想しようとすると大声がし、先程の修道士が現れ、瞬く間に騎士姿のメフィストに変わる。メフィストは、アリア「私はすべてを否定する精霊」を歌い、自己紹介をする。ファウストは、過ぎ去った青春を取り戻す代わりに魂を渡すという契約をメフィストと結び、過ぎ去る時の中で「止まれ、お前は美しい!」という瞬間に出会ったら、すぐにでも地獄に落ちようと言う。二人は魔法のマントに乗って去る。
第2幕第1場 庭園
青年エンリーコとなったファウストは、美しい乙女マルゲリータを、メフィストは、彼女の隣人マルタを口説く。マルゲリータは、いつも母が横に寝ると話すので、ファウストは眠り薬を彼女に与え、夜の愛のひとときを楽しむことにする。
第2幕第2場 シールケの谷間、ハルツ山中のブロッケン山頂
メフィストはファウストを急かして山を登ってくる。鬼火が現れ、悪魔や魔女たちがサバトの夜を讃える。メフィストが現れると悪魔たちは平伏し、マントやガラスの球を渡す。メフィストはアリア「これが無の世界」を歌い、ガラスの球を地面に叩きつける。悪魔たちが踊り始めると、ファウストは鎖につながれたマルゲリータの幻影を見る。目を背けるように言うメフィストをよそ眼に、「私の天使」と叫ぶファウスト。悪魔たちの踊りは続く。
第3幕 牢獄
マルゲリータは、アリア「いつかの夜、暗い海の底に」を歌い、ファウストとの間に生まれた子を海に捨て、母親を毒殺したことを物語る。もはや彼女は正気ではなかった。牢獄にマルゲリータを救い出そうと、メフィストの力で牢獄に潜入したファウスト。狂気のマルゲリータは、始めファウストを神と思いこむが、愛する人を思い出し、ファウストと二重唱「遠くはるかに」を歌う。夜が明けるのを告げにメフィストが現れるとマルゲリータは怯え、「エンリーコ、あなたが恐ろしい」とつぶやき、亡くなる。天上から天使たちの「彼女は救われた」との声が聞こえる。メフィストは強引にファウストを連れ去ると、死刑執行人が現れる。
海のイラスト
第4幕 古代ギリシャ
絶世の美女エレナ(トロイのヘレナ)が真珠貝の舟に乗っている。ファウストが15世紀の騎士の姿で現れ、エレナ愛の告白をする。愛の言葉にエレナは、ファウストと二重唱「ああ!愛!天空の神秘!」を歌い、物陰に身を隠し、愛を確かめ合う。
エピローグ ファウストの書斎
若い体を手に入れ、様々な愛を経験してきたファウストは、メフィストの誘惑に乗ることもなく、アリア「世の果てに近付いた」を歌い、物思いに耽っている。天上からの天使の合唱を耳にし、メフィストが止めるのも聞かず聖書を開き、「止まれ、お前は美しい!」と叫ぶと、ファウストは死ぬ。天使たちは、ファウストの魂は救われたと歌い、ばらの花びらを遺体に降らせる。メフィストは神の勝利を認めつつも、口笛を吹きながら去り、幕となる。

聴いてみよう

第3幕で歌われるマルゲリータのアリアを、第7回コンクール第1位の鴫原奈美さんの歌でお聴きください。
[インタビュー&アリア演奏]鴫原奈美さん(ソプラノ・第7回第1位)
(ふじのくにオペラチャンネル)
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ウィーン国立家劇場のプログラムです。短縮されたとしても膨大な内容を含むオペラ。プロローグ、エピローグ付き全4幕。8つの部分からなります。第1幕から第3幕が「ファウスト第1部」、第4幕が「ファウスト第2部」となります。ウィーンでは、2回休憩が入り、第1幕と第3幕の後に置かれていて、上演時間は3時間30分でした。ミラノ・スカラ座との共同プロダクションで、後でご紹介するムーティが初演で指揮をしていました。
ウィーン国立家劇場のプログラム
ウィーン国立家劇場のプログラム

参考CD

結構いろいろな種類が出ています。ここでは3つ。
参考CD(1)
指揮:アンジェロ・クエスタ
メフィストーフェレ:ジュリオ・ネーリ
ファウスト:フェルッチョ・タリアヴィーニ
マルゲリータ:マルチェッラ・ポッベ 他(1954年録音)
何よりも、フェルッチョ・タリアヴィーニ(1913–1995)を聴く録音です。甘く美しい彼の声は、とても魅力的で、マルゲリータでなくても惹きつけられると思います。そして、パルマの「アッリーゴ・ボーイト音楽院」の卒業生です。来日も多く、親日家としても知られていました。ジューリオ・ネーリ(1909–1958)は、メフィストーフェレを得意としており、この他にも1952年に全曲録音しています。マルチェッラ・ポッベ(1921–2003)は、リリックソプラノとして、ドイツもの(イタリア語上演)もレパートリーにいれていました。アンジェロ・クエスタ(1901-1960)は、劇場たたき上げの指揮者です。
参考CD(1)
参考CD(2)
指揮:トゥリオ・セラフィン
メフィストーフェレ:チェーザレ・シエピ
ファウスト:マリオ・デル・モナコ
マルゲリータ:レナータ・テバルディ 他 (1958年 録音)
トゥリオ・セラフィン(1878-1968)の指揮は、どのオペラを聴いても良い意味で歌手を引き立てる指揮です。かといって伴奏のみにとどまらず、いろいろな色を描き出しています。マルゲリータのレナータ・テバルディ(1922-2004)も、「アッリーゴ・ボーイト音楽院」を卒業し、オペラデビューは「メフィストーフェレ」のエレナという、このコーナーには打って付けの歌手です。マリア・カラス(1923-1977)との確執もありますが、真摯なマルゲリータの表現は絶品。チェーザレ・シエピ(1923-2012)の押出の良い発声は、悪魔にしておくのはもったいない気品があります。相変わらず奔放に歌い飛ばすマリオ・デル・モナコ(1915-1982)の声は、胸のすく思いがします。ここにもピエロ・デ・パルマ(1925-2013)の名前が見えます。永遠に色あせない名盤かと思います。
参考CD(2)
参考CD(3)
指揮:リッカルド・ムーティ
メフィストーフェレ:サミュエル・レイミー
ファウスト:ヴィンチェンツォ・ラ・スコーラ
マルゲリータ:ミシェル・クライダー 他 (1995年 録音)
スカラ座で初演され失敗に終わったこのオペラですが、改定を経た後は、スカラ座でかなり取り上げられています。この録音は1995年に行われた公演のライヴ録音です。大掛かりな合唱が必要となる作品だけに、スカラ座の合唱団だけではなく、ミラノ音楽院の合唱団も動員されています。当時の音楽監督を務めていたリッカルド・ムーティは、このオペラを愛してやまぬと公言してはばかりません。歌手陣もまとまっていて、すばらしいCDになっていると思います。スカラ座の公演の後、ウィーンで公演されました。それが、上記のプログラムのものです。
参考CD(3)