Case Study事例をみる意義

事例をみる意義

松本 茂章静岡文化芸術大学 文化政策学部芸術文化学科・教授

はじめに

本報告書は、勤務する静岡文化芸術大学が文化庁の補助金を得て行った2016-2017年度の一連の活動をまとめたものである。2017年度の講座には茨城県、静岡県、愛知県小牧市、岡山県、北九州市の5自治体が参加したので、現場の実態や課題に直面することができた。本報告書にも貴重な事例が取り上げられている。自治体文化政策研究を専門とする筆者には、貴重な体験だった。参加自治体の関係者に感謝の気持ちを伝えたい。
生き生きした事例が詰まった本報告書だけに、筆者は事例研究の意義について語ろうと思う。本報告書を手にした読者の多くは、自治体文化担当部局の職員、あるいは自治体外郭団体の職員、もしくは文化施設のスタッフ等であろうと拝察する。日ごろ、施設や団体の管理運営に追われて、なかなか外に出にくい職場環境なのではないか。それでもぜひ外に出て他の地域の事例から何かを学んでいただきたいと願う。ずっと内部にいるよりも、ときには外部から施設や団体を見つめてみると、見えてくるものがあるはずだからだ。

1. 思い出の書籍

研究には2つの道があるように思う。1つには理念や理論の研究である。編み出された理念や理論によって分析枠組み、あるいは「ものの見方」が生まれ、その視点で物事を分析することができる。荒野を前進して切り開き、新たな道をつくる。研究の「先達」(せんだち)である。2つには、具体的な事例を丁寧に検証して何らかの示唆を得る事例研究である。
筆者にとっての「先達」は、中川幾郎先生(帝塚山大学名誉教授)(日本文化政策学会初代会長)である。中川先生の名著『分権時代の自治体文化政策 ハコモノ行政から総合政策評価に向けて』(勁草書房、2001)は、筆者が知る限り、自治体文化政策をめぐる書籍のなかで、これを上回る著作は現れていない。感銘を受けた筆者は政策研究の道を志し、全国紙記者から大学教授に転じることになった。思い出の1冊であり、いつ読み返しても、当時の初心に戻ることができる。
中川先生は同志社大学経済学部を卒業後、豊中市に奉職された。公務員として勤務しながら、大阪大学大学院国際公共政策研究科で学ばれ、博士論文をもとに同書を書かれた。文化政策研究の先行研究を踏まえつつ、より精緻化した自治体文化政策基本モデルを打ち立てられた。3つの主体(市民文化、都市文化、行政文化)×3つの活動側面(表現、交流、蓄積)×3つの資源(ヒューマンウエア、ソフトウエア、ハードウエア)という3次元モデルを提示し、想定できる27区分のマトリクスは「政策転換のためのテーマ発見リストとしても使用できる」とされた。
なかでも「ハード以前にソフトがあり、ソフト以前にヒューマンウエアの不可欠性がある」という先生の指摘は、新聞記者として各地の文化施設を取材してきた経験を有する筆者にとって、実に新鮮に映った。目からうろこが落ちる思いを経験した。
同書が出版された当時、中川先生は日本アートマネジメント学会関西部会長を務められ、筆者は同部会事務局長を拝命していた。中川先生に私淑しながら、同書の理論を実際の文化施設に当てはめて分析したいと願うようになり、学び直そうと決心した。同志社大学大学院総合政策科学研究科に進学し、前期課程、後期課程を経て2009年に博士論文を提出した。題目は『芸術創造拠点と自治体文化政策 京阪神3都の事例分析』である。京都市立の京都芸術センター、大阪市にある劇場寺院・應典院、神戸市の古い移民施設を活用した民間アートセンター・CAP HOUSEの詳しい調査を行い、官民協働の状況を分析した。さらに加筆修正して2年後には2冊目の単著『官民協働の文化政策 人材・資金・場』(水曜社、2011)を出版した。博士論文や拙著のなかで、独自の分析枠組みを提示できたのも、「中川モデル」を学んだおかげだ、と振り返っている。

2. 事例研究の際に心がけたい3つの点

中川先生の『分権時代の自治体文化政策』は理論書であり、実際の事例が掲載されていなかった。筆者は「中川モデル」に強く影響され、この分析枠組みで文化施設の現場を見つめ直してみたい……と思った。これが研究者になる契機だったことは先に述べた。
すなわち、実証研究の際に心掛けたいことの1つは、「事例を調べてきました」という単なるレポートでは決してないということ。一定の分析枠組みをもとに改めて研究対象を見つめ直す試みである。そして「先達」の示した分析枠組みを改善したり、今日的な修正を施したりする。このためには、自身が感銘を受ける「先達」のモデルを見つけてほしい。
2つには、丁寧な調査である。1度の訪問では到底、調査対象に食い込むことはできない。本音を引き出せない。調査対象者の信頼を得るには通い詰めることである。「現場100回」を叩き込まれた新聞記者時代の習性かもしれないが、研究対象を知るには、春も夏も秋も冬も、それぞれの四季を把握しておきたい。
3つには、文化施設や文化団体が機能するための3条件である。これは先に触れた博士論文(2009)や単著『官民協働の文化政策』(2011)で明らかにしたものだが、「文化政策人材あるいはアートマネジメント人材の存在」、「多様な資金調達」、「自主的な場の管理」をもとに分析すると、施設が機能しているかどうかが鮮明に浮かび上がってくる。要は、「人材」の存在を知り、「お金」の流れを追い、「場」の管理具合を調べる、という訳だ。

3. 事例研究の大切さ

理論研究を踏まえての事例研究は実に大切な取り組みである。実際に足を運んでみないと分からない点が多々あるからだ。たとえば筆者は2006年から2014年までの足掛け9年間、自治体職員向けの月刊誌『地方自治職員研究』に「施設からみる自治体の“文化水準”」を連載し、全国100近い現場を訪ね歩いた。成果は3冊目の単著『日本の文化施設を歩く官民協働のまちづくり』(水曜社、2015)と題して出版できた。現在も別の月刊誌に連載を続けており、しばしば現場を訪問して、新たな気づきを得ている。
現場を訪れてみると驚きの連続である。施設のホームページや広報誌等には紹介されていない事象が多数あるのだ。「こんなに興味深い実態がなぜ紹介されていないのか」と感じる。「これほど興味深い館長や職員はよそにはいないぞ」と感激する人物に出会える。しかしホームページ等には触れられていない。型どおりの紹介にとどまっている。数字だけでは決して浮かび上がってこない職員の士気、やる気、意識の高さ、施設の空気感などは現場を訪ねて初めて体感できる。だからこそ現場を訪問する試みは「宝の山」に入るようなものだ。
インターネットが発達しようが、SNSや電子メールで便利になろうが、人と人が会って意思疎通を図ることの重要性は変わらない。いや、むしろ一層、人と人の出会いの重みが増してくる。気温38度を超える猛暑のなかを訪ねた体験や、猛烈な寒風に吹かれながらも歩いて訪問した経験は、必ずあとで生きてくると信じたい。
今回の講座には、先に述べたように北は茨城県から南は北九州市までの5自治体が参加したので、本報告書にも貴重な事例が多数掲載されている。とはいえ、どうしても当事者の伝える物語には抑制的な傾向がある。外部から見た方が独自性や斬新性に気付きやすい。読者の方々には、ぜひ興味を持った現場に足を運び、自らのケースと比較しながら、自分なりの視点で分析していただきたい。そして勤務する施設や団体の改善策に活かしてほしい。本報告書は、現地訪問のための序章である。さあ、歩き始めよう。