
About Competition静岡国際オペラコンクール
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目的
特徴
歴史
1996年に第1回「国際オペラコンクール in SHIZUOKA」が開催され、その後1999年、2002年と3年毎に回を重ね、2003年にはその実績が認められ声楽分野のコンクールではアジア初となる「国際音楽コンクール世界連盟」加盟が実現、これを機にコンクールの名称は「静岡国際オペラコンクール」と変更されました。2016年には世界遺産に登録された富士山の近くで開催されることを強調するため英語名称を変更。本コンクールの入賞者は世界各国の名立たる劇場で活躍しています。3年ごとの開催で、第9回の開催は2020年に予定していましたが、世界的な感染症の流行により2023年に延期されています。
入賞者の情報はこちらをご覧ください。
国際音楽コンクール世界連盟(WFIMC)とは
コンクール活動との調和、入賞者の援助などを目的として1957年設立されました。本部はスイス・ジュネーブにあります。高いレベルの加盟基準があり、権威ある国際コンクールの多くが加盟しています。静岡国際オペラコンクールは2003年にWFIMCに加盟しました。
三浦環について

三浦環 MIURA Tamaki
三浦環は、明治17年(1884)に東京の京橋で、静岡県城東郡下朝比奈村(現 御前崎市)出身の父柴田熊太郎と城東郡小沢村(現 菊川市)の永田家から嫁いだ母登波の間に生まれました。幼い頃から、箏、長唄、日本舞踊などの芸事に豊かな才能を示し、美しい声の持ち主としても評判でした。16歳で東京藝術大学の前身、東京音楽学校に入学、明治36年(1903)、19歳で日本人の演じた最初のオペラ「オルフォイス」の主役に抜擢されました。その後、帝国劇場の専属プリマドンナとしても活躍しました。
大正2年(1913)、遠縁の帝国大学医学部助手(医学博士)三浦政太郎と結婚。しばらく、三浦の故郷、掛川で生活しました。大正3年(1914)、夫とともにドイツに留学しましたが、第1次世界大戦が勃発したため、ロンドンへ逃れ、大正4年(1915)、ロンドンオペラハウスで、「蝶々夫人」の主役を務め、大好評を博しました。作者のプッチーニ自身からも「マダム・バタフライはタマキ・ミウラのために作られたようなもの」と絶賛され、アメリカやイタリアで『蝶々夫人』のプリマドンナとして大活躍しました。大正11年(1922)、1回目の帰国をしましたが、その際、浜松をはじめ66回の「三浦環独唱会」を開催し、東京市内ではレコード8万枚を売り上げる記録的なセールスとなりました。
その後、再び海外を中心に公演活動を行い、昭和3年(1928)、45歳の時には、カーネギーホールで「三浦環独唱会」を開催しました。昭和10年(1935)、イタリアのパルレモでの『蝶々夫人』2000回目の公演を終えると、環は日本に帰国し、歌舞伎座での『蝶々夫人』の日本初演など、国内で精力的にオペラなどの公演活動を行いました。しかし、次第に戦時色が強まり、山中湖畔に疎開、そこで母登波を亡くしました。戦争が終わり、再び演奏活動を始めましたが、体調を崩し、昭和21年(1946)5月26日、東京帝大付属病院で永眠しました。享年62歳でした。
参考文献 『考証 三浦環』(田辺久之著)

三浦環の人生を動画とともにご紹介します。
静岡県について
東西の文明を受容し発展した日本の中央に位置するため、東の文化と西の文化が交流する地域であり、豊かで多様な文化資源を有しています。そして、日本文化の象徴であり、世界遺産である富士山のもとで、豊かで独創的な文化が創り出されてきました。
また、温暖な気候や山と海に面した立地を活かし、緑茶、みかん、いちご、メロンなどの農産物や、かつお、まぐろなどの水産物を含む多様な農水産物がある一方で、三大都市圏を結ぶ東海道に沿って整えられた鉄道・高速道路などを背景として、全国有数の工業地域で、ものづくりが盛んです。

