芸術家の魂

【ふじやまのぼる先生のオペラ講座(20)】
かつての誇り高い芸術家は、自分がいかに世に評価されるかを気にしていました(いたはずです)。良い意味で自分が他の歌手より目立つことを優先し、なおかつ少しでも自分にとって不利益なことや弱みを、耳聡い聴衆に見せることを極端に嫌っていました。最近は、わがまま放題の芸術家は少なくなったようですが。そんな一例をご紹介しましょう。

マリア・カラス  vs  マリオ・デル・モナコ

この二人の不世出の歌手については、「アイーダ」での共演を参考CDのところで紹介しましたね。実はこの二人、録音はそれぞれ数多く残されているのですが、ライバル関係にあったレコード会社の所属で、両者がそろって商業用の録音が残されたことはないのです。また、レパートリーがあまり重ならなかったので、共演の機会はそんなに多くなく、「アイーダ」、「ノルマ」、「トゥーランドット」などが見られます。それらの劇場でのライヴ録音は、かつて「海賊版」と呼ばれる非正規の音源としてマニアの間では話題となっていました。
マリア・カラス(1923-1977)は、ギリシャ系の移民としてニューヨークで生まれています。彼女は「椿姫」のヴィオレッタや「ランメルモールのルチア」のルチアノルマなどを得意とし、歌唱も素晴らしいがその演技もまた素晴らしいと評された、20世紀最高のソプラノと言われています。オペラ解説の参考CDのコーナーには、よく登場しますので、ご承知の方も多いでしょう。
対するマリオ・デル・モナコ(1915-1982)はイタリアに生まれた「黄金のトランペット」の異名をとる輝かしい声のテノールで、オテロや「道化師」のカニオ、「イル・トロヴァトーレ」のマンリーコなど、ドラマティックなテノール役を得意としていました。「デル・モナコ」と呼ばれることが多いです。カラスと同じくオペラ解説の参考CDのコーナーに、今後もご登場願うことでしょう。
そんな彼らが共演したライヴ録音ですが、カラスの生誕80年に当たる2003年前後に、カラスの所属していたレコード会社から「正規」に発売されています。ご紹介した「アイーダ」も含まれています。そんな中に、ちょっと奇異な形での共演が記録として残った、とても貴重なものがあります。それは1955年1月のミラノ・スカラ座の公演です。
アンドレア・シェニエ
このCDの解説書に、この公演についての詳細が書かれていました。また他のカラス関連の書籍の情報と合わせて、かいつまんで説明しますね。
1955年1月8日の初日に向けて、ミラノ・スカラ座は、ヴェルディの「イル・トロヴァトーレ」を上演するため準備をしていました。その公演にカラスとデル・モナコの両者が出演することになっていたのです。デル・モナコは公演直前(5日前ともいわれています)に、「調子が悪いから、『イル・トロヴァトーレ』は歌えない、ウンベルト・ジョルダーノ(1867-1948)の『アンドレア・シェニエ』なら歌える。」と言い出します。なぜこんなことを言い出したのでしょう。確かに調子が悪かったのも事実でした。しかし、こんな駆け引きがあったと言われています。
前月の12月スカラ座は、カラスを主演としたガスパーレ・スポンティーニ(1774-1854)作曲のオペラ「ラ・ヴェスターレ」で開幕し、ルキーノ・ヴィスコンティ(1906-1976)の名演出もあり、大当たりをとっていました。次の演目として決まっていた「イル・トロヴァトーレ」のレオノーラは、カラスの当たり役。このままいけば完全にカラスに主役の座を持っていかれてしまう。危機感を覚えたデル・モナコは、確信犯的に「歌えない」と言い出したと言われています。カラスにとって、「アンドレア・シェニエ」のマッダレーナ役は、アリアはともかく全曲を歌ったことはありませんでした。反対にデル・モナコにとって「アンドレア・シェニエ」は、自家薬籠中の物。日本でも公演していました。彼は、「カラスは歌わず代役が登場する、それはカラスと人気を二分するあのソプラノのはず」と思っていました。劇場支配人はデル・モナコの要求を呑み、カラスに演目変更を伝えます。カラスの反応は、デル・モナコの読みとは正反対で、「デル・モナコの不調で演目が変わること」をアナウンスさせることを条件に演目変更を受け入れます。そして降板することなく約5日で役を覚え、上演にこぎつけます。このCDをお聴きになった方はお分かりになると思うのですが、数日で覚えたとは思えない、完璧なマッダレーナを聴くことができます。全6公演を終えた後、カラスはこの役をレパートリーに加えることはありませんでした。好きな役柄ではなかったことと、自分の声に合っていないからというのが理由です。まあ、このオペラはシェニエ=テノールのオペラですからね。

笑い話をひとつ・・・

カラスは長身で、デル・モナコはあまり背が高くなかったと言われています。二人の共演の際、モナコは身長が高く見える靴(いわゆるシークレットシューズと呼ばれるもの)を履き、カラスよりも前へ出て歌ったと言われています。遠近法ですね。カラスも前へ出るのでデル・モナコはさらに前へ。