~今月の作曲家~「ベルク」(2022年2月)

【ふじやまのぼる先生の作曲家紹介(2)】

ベルク

Alban Berg (1885–1935) ~1930 © Max Fenichel (1885–1942)
アルバン・ベルク
(1885.2.9-1935.12.24)
Max Fenichel, Public domain, via Wikimedia Commons
アルバン・マリア・ヨハネス・ベルク(Alban Maria Johannes Berg)は1885年2月9日にウィーンで生まれた現在でいうオーストリアの作曲家です。ベルク家の4人兄妹の3番目として裕福な家で育った彼は、母親から音楽的な素養を受け継ぎ、幼少から音楽や文学に興味を示したといいます。
15歳の時に父親が亡くなり、家計に影響が出ますが、作曲を始めたのもこのころといわれています。彼の10代は、私生児を生ませたり、卒業試験に失敗して自殺を図ったりと、なかなか波乱に満ちたものでした。
しかしすぐ上の兄のシャーリー(1881年生まれ)がたまたま作曲の個人レッスン募集のための新聞広告を発見。弟の作品を作曲家アルノルト・シェーンベルク(1874-1951)へ見せたところ、入門が許可されます。再度受けた卒業試験にも無事合格し、役所に勤めながら本格的な作曲を開始しました。2年後には遺産を相続し、作曲に専念するため役所を辞め、1910年まで、シェーンベルクの下で学びました。
1907年、シェーンベルクの弟子たちの作品を紹介するコンサートで作曲家としてデビューします。その後の1908年7月23日、宿命の病である喘息の発作に襲われます。ベルクは、このとき23歳。彼は今後、この「23」という数字を自分の運命の数字と感じるようになります。
1911年にはヘレーネ・ナホフスキー(1885-1976)と結婚。彼女はオーストリア皇帝フランツ=ヨーゼフ1世(1830-1916)の娘の可能性があり、とても気位の高い女性として後世に伝えられています。
シェーンベルクのもとでの作曲は、ピアノ伴奏の歌曲室内楽が中心でしたが、シェーンベルクのもとから巣立ったベルクは、自作のピアノ伴奏歌曲をオーケストラに編曲したり、オーケストラのための作品を作曲したりして、方向性の転換を試みます。1914年、最初のオペラのきっかけとなるゲオルク・ビューヒナー(1813-1837)の戯曲「ヴォツェック」の上演を鑑賞し、オペラ化を思い立ちます。しかし、折り悪く始まった第1次世界大戦で兵役に就かなければならず、作曲は先送りされ、喘息も悪化してしまします。戦後の1917年に「ヴォツェック」の作曲が再開され、1922年に全曲が完成されます。

ベルクのオペラ

ベルクは2つのオペラを作曲しています。

(1) ヴォツェック

一兵卒のヴォツェックは、上官である大尉にいじめられ、医者からは人体実験の被験者にされ、だんだんと精神に異常をきたしていく。情婦マリーとの間にできた子どもにも愛情が注げない。最終的にマリーを刺殺し、自分も池でおぼれて死ぬ。
ベルクは、オペラ初演に先立ち全体から5つの場面を選んで、3楽章からなる管弦楽とソプラノのための曲(「『ヴォツェック』からの3つの断章」と呼ばれます)に仕立て、デモンストレーション的に発表し、成功をおさめます。その後、137回のリハーサルを経て、1925年12月14日にベルリン国立歌劇場において初演されました。
参考CD
ヴォツェック:フランツ・グルントヘーバー
指揮:クラウディオ・アバド 他(1987年 録音)
ウィーン国立歌劇場の音楽監督だった、クラウディオ・アバド(1933-2014)は、たくさんのオペラ全曲録音を残していますが、このCDもその中の1つで、とても優れた録音です。フランツ・グルントヘーバーは、ヴォツェックと同じ「フランツ」というファーストネームを持つだけあって、憑依したかのような迫真の歌唱です。また、マリーのヒルデガルト・ベーレンス(1937-2009)や大尉のハインツ・ツェドニクなど、細部までよく考えられた演奏です。アバドとウィーン国立歌劇場の来日公演でも上演されていますので、ご覧になった方もいるのではないでしょうか。先生は、残念ながら見ることができなかったので、ウィーンで観ました。出演はほぼ変わってしまいましたが、ベーレンスとツェドニクを聴けて満足でした。サインは大好きなツェドニクのものです。
WozzeckCD
wozzeck casting
1928年、ベルクは次なるオペラの題材を、フランク・ヴェーデキント(1864-1918)の2つの戯曲「地霊」「パンドラの箱」に求めます。このころベルクの名声は上がり、「ヴォツェック」も各地で上演され始め、経済的にも安定を保っていた矢先の1933年、ナチスの成立により、ベルクの作品は「退廃芸術」の烙印を押されてしまい、予定されていた「ヴォツェック」の上演の見通しは立たなくなります。
それにもめげずベルクは、2つの戯曲を「ルル」という1つのオペラにまとめ、作曲を始めます。「ヴォツェック」の時のように、5楽章からなる「ルル組曲」と呼ばれる管弦楽曲を初演し、成功をおさめます。
あと少しで「ルル」完成というときに、マノン・グロピウス(1916-1935)の死を知ります。マノンは、グスタフ・マーラー(1860-1911)の未亡人で、ベルクを経済的に支えたアルマ(1879-1964)と、再婚したヴァルター・グロピウス(1883-1969)との間にできた女性で、ベルクも彼女のことをとてもかわいがっていました。彼女を追悼するためのヴァイオリン協奏曲を作曲します。その後1935年12月24日の未明に、悪性の腫瘍がもとでベルクは亡くなりました。運命の数字に翻弄された彼は、23日に自分は死んだと思っているでしょう。「ルル」は未完成のまま残されることになりました。

(2) ルル

主人公「ルル」は、パンドラの箱と同じ存在で、魔性の女、つまり「ファム・ファタール」である。彼女は、医事顧問画家と結婚するが、次々に死に至らしめる。影で彼女を操るシェーン博士をも虜にし、結婚後、博士を撃ち殺してしまう。シェーン博士の息子アルヴァをも虜にしたルルは、彼女に愛をささげる伯爵令嬢とアルヴァの助けを借りて、博士殺害の罪から逃れ脱獄する。しかし、娼婦に身をやつしたルルは、ある客(切り裂きジャック)から理由もなく殺害される。
全3幕で構想されたこのオペラですが、第2幕までは完成されていました。しかしベルクの死により第3幕は不完全な状態で残されてしまいました。ベルク未亡人ヘレーネは、補筆完成を考え、シェーンベルクなどに依頼しますが結局うまくいかず、1937年6月2日チューリッヒ歌劇場での初演の際は、2幕終了後に、第3幕から素材がとられている「ルル組曲」から第4曲第5曲を演奏し終幕としました。この上演から、断片的ないわゆる「トルソー」としての上演でも可能と考えた彼女は考えを変え、第三者による補筆を禁じました。そのためしばらくは、この上演スタイルが慣習となっていました。
ところがヘレーネの死後、1979年2月24日全3幕での上演パリ・オペラ座で行われます。禁じていたヘレーネの目を盗んで楽譜出版社が、オーストリアの作曲家フリードリヒ・チェルハに依頼し、1960年代から補筆を開始していたのです。その後日本でも2003年に3幕版での初上演が行われています。
2幕まで補筆第3幕とを分けることで、楽譜が出版されている現在、2幕版と3幕版のどちらも選択することができます。CDも上演もどちらのパターンも存在します。しかし、どちらが良いかということは、なかなか決めることができません。昨年(2021年)東京二期会の上演は、2幕版でした。どちらになっても、上演が難しいオペラであることには変わりありません。
参考CD(2幕版)
ルル:アニア・シリヤ
指揮:クリストフ・フォン・ドホナーニ 他(1976年 録音)
ウィーンフィルを指揮するドホナーニシリヤは夫婦です。夫婦だからと言って名演が生み出せるとは限りませんが、冷え冷えと冴えわたるドホナーニの指揮するウィーンフィルと、シリヤの闇をもつんざく冴えわたった声とで、相乗効果を上げています。ネットで買ったこのCD、実はとんだ掘り出し物で、出演者(全員ではありませんが)のサインが、解説書にしてありました。今は亡き、ハンス・ホッター(1909-2003)や、第1回コンクールで審査委員を務めたヴァルター・ベリー(1929-2000)のものも!封を開けたとき、小躍りしたことを覚えています。あっ、ここにもツェドニクのサインが!
ルルCD1
参考CD(3幕版)
ルル:ジュリア・ミゲネス
指揮:ロリン・マゼール 他(1983年 録音)
パリでの3幕版初演のCDも良いですが、ウィーン初演の方をご紹介します。やっぱり、ベルクの音はパリよりもウィーンが似つかわしい。ミュージカルなどで活躍したジュリア・ミゲネスのルルはちょっと癖がありますが、その他の出演者の豪華なこと。ドホナーニのCDと共通する歌手もいますが、それに勝るとも劣らない布陣。劇場のライヴ録音は、レコード会社の垣根を超えた歌手の競演が見られます。もちろん、その豪華さに見合った演奏を繰り広げているのは、名匠ロリン・マゼール(1930-2014)の手腕でしょう。
ルルCD2