~今月の作曲家~「チレア」(2022年7月)

【ふじやまのぼる先生の作曲家紹介(7)】

チレア

Guigoni & Bossi. Francesco Cilea. 1910
フランチェスコ・チレア
(1866-1960)
Public domain, via Wikimedia Commons
フランチェスコ・チレア(Francesco Cilea)は、1866年7月23日に、イタリアのレッジョ・カラブリア県パルミで生まれました(チレーアと表記されることもあります)。パルミは、長靴の形をしているイタリアのちょうどつま先の部分にあります。リフティングするときにボールが当たる部分でしょうか。幼いころベッリーニの「ノルマ」の音楽を聴いたことが、音楽を志したきっかけのようです。
彼は1881年から名門ナポリ音楽院で学び、早熟な才能と勤勉さを評価され、教育大臣から金メダルを獲得しました。
1889年、修了作品としてオペラ「ジーナ」を提出します。このオペラは音楽院内の劇場で上演され好評を得ます。卒業後1898年まで、母校でピアノと和声の教師として働きます。その間、またあの出版社が若きチレアに目をつけます。そう、ソンゾーニョ社です。
ソンゾーニョ社はチレアに、3幕物の短いオペラ「ラ・ティルダ」の作曲を依頼します。乗り気のしない内容でしたが、作曲を開始。1892年にフィレンツェのパリアーノ劇場で初演されました。またも好評を得て、イタリア各地で上演され、ついに同年ウィーンでも演奏されます。しかし彼は、この作品に愛着を持てなかったようで、楽譜は戦災で失われてしまいました。幸か不幸か、最近の研究や調査により、部分的ではありますが楽譜が再構築され、その演奏を聴くことができます。
そして第3作、「アルルの女」が1897年にミラノのリリコ劇場で初演されます。「アルルの女」は、フランスの小説家アルフォンス・ドーデ(1840-1897)の短編でしたが、後に戯曲化され、ジョルジュ・ビゼー(1838-1875)が音楽を担当しました。彼が編んだ組曲が有名すぎて、同名のオペラがあることはあまり知られていませんね。
「アルルの女」あらすじ
農夫のフェデリーコは、アルルの女を愛し結婚を望んでいる。しかしアルルの女には愛人がいることを知る。フェデリーコの家族は、彼を幼馴染と結婚させようとするが、絶望したフェデリーコは、婚礼の前夜、高窓から身を投げる。
この作品は、「タイトルロール」が登場すらしないオペラです。当時24歳のエンリコ・カルーソ(1873-1921)がフェデリーコを歌い、カルーソのその後の歌手生活を、決定づけたといっても過言ではありません。しかし、オペラとしてはあまり成功したとは言えませんでした。最初4幕仕立てだったものを3幕にしたり、前奏曲を追加したり、様々な改定を行いました。でも歌劇場のレパートリーとして定着することはありませんでした。第2幕中程で歌われるアリア「ありふれた話(フェデリーコの嘆き)」は、テノールの名アリアで、コンクールでもよく歌われます。先生も教員採用試験の時に、自ら伴奏を弾きながら歌った記憶があります。あ~、あの頃は若かった…。
 
先生はこの「アルルの女」のCDで、フェルッチョ・タリアヴィーニ(1913-1995)の歌う「フェデリーコの嘆き」をよく聴きます。作曲家の死の翌年に録音されていますので、出演者はみな、作曲家のことを知っていたのかもしれませんね。
アルルの女CD
1898年から1904年まで、フィレンツェ音楽院で和声の教師として働きます。その間、第4作「アドリアーナ・ルクヴルール」が1902年に同じくミラノのリリコ劇場で初演されました。このオペラにより、チレアの名声が決定づけられます。後で詳しくお話ししますね。
作曲に専念するため教職を辞したチレアは、第5作「グローリア」を世に出します。1907年の初演はミラノ・スカラ座、指揮はアルトゥーロ・トスカニーニ(1867-1957)でした。しかし、完全なる失敗に終わり、2回の上演でお蔵入りとなってしまいました。「アルルの女」と同じく改定を行いますが、レパートリーに残ることはありませんでした。
その後のチレアは、オペラ創作を試みますが完成には至らず、室内楽やオーケストラの曲をいくつか残しています。その後教職にも復帰し、1913年から1916年まではパレルモの音楽院、1916年から1936年までは、母校のナポリ音楽院の院長となりました。1950年11月20日、北イタリアのヴァラッツェで亡くなりました。
ここでもソンゾーニョとリコルディの対立
ミラノの歌劇場といえば、よく「三大歌劇場」のひとつに数えられるミラノ・スカラ座が超有名ですが、「アルルの女」や「アドリアーナ・ルクヴルール」が初演されたのは、リリコ劇場です。そんな劇場知らない?そうですね、ちょっとかわいそうな運命にある劇場なのです。
1776年、ミラノ大公の宮殿にあった劇場が火事で焼失、フェルディナント大公(1754-1806)は、ミラノ市内に二つの劇場を新設することにします。その一つがミラノ・スカラ座で、もう一つが後にリリコ劇場となるカノッビアーナ劇場です。二つの劇場とも、アントニオ・サリエリ(1750-1825)の作品でこけら落としされました。カノッビアーナ劇場では、以前ご紹介したドニゼッティのオペラ「愛の妙薬」が1832年に初演されています。
両劇場は同一の興行主のもとで運営されていましたが、公的な補助金の減少からカノッビアーナ劇場は徐々に衰退していきます。そこで現れたのが、またもやソンゾーニョ社。1894年から名前を「リリコ劇場」と改め、自社の息のかかった作曲家の作品を上演する専用の劇場としてしまったのです。そうなると、当然、リコルディ社の牙城であったスカラ座との対立も表面化します。「グローリア」がスカラ座で2回しか上演されなかったのは、リコルディ社の妨害と、ソンゾーニョ社の無関心があったと言われています。
結局1926年、再びミラノ市の所有となり戦中戦後を潜り抜けますが、やはり財政的な理由で1998年に閉鎖されてしました。
近年再建の動きがあり、リリコ・ジョルジョ・ガーベル劇場と名付けられることになっています。ジョルジョ・ガーベル(1939-2003)は、この劇場によく登場したミラノ出身の歌手で、日本でもカンツォーネのCDが出ているそうです。

アドリアーナ・ルクヴルール

アドリアーナ・ルクヴルール(Adriana Lecouvreur)とは、フランスの女優の名前です。これはイタリア語表記で、本当は「アドリエンヌ・ルクヴルール(Adrienne Lecouvreur)」(1692-1730)といいます。
アドリエンヌは、職人の家に生まれました。パリのキリスト教学校に学び、15歳で舞台デビュー。1717年からは、コメディ・フランセーズで活躍します。その死までの13年あまりに2,000回近く花形女優として舞台に立ち続けました。彼女の特徴としては、伝統であった大げさなせりふ回しではなく、自然な舞台演技であったと伝わっています。
しかし、ある公演直後、38歳になる直前に急死してしまいます。この早すぎる死について、恋人だったモーリス・ド・サックス(1696-1750)と三角関係だったと伝えられたブイヨン公爵夫人(1707-1737)による毒殺ではないかと、まことしやかに噂されました。また、教会が埋葬を拒否したことで、友人だったヴォルテール(1694-1778)はその死を悼み、教会に批判的な詩を書き、密かに彼女を、墓地ではないところに埋葬したと伝えられています。
この噂話に大いなる脚色を加え戯曲に仕立てたのは、ウジェーヌ・スクリーブ(1791-1861)とガブリエル・ルグーヴェ(1807-1903)で、1849年に初演されました。サラ・ベルナール(1844-1923)を始めとする大女優が演じ人気を博したため、毒殺説は半ば真実であったかのように流布してしまいましたが、自然死か病死であったというのが事実だと言われています。
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あらすじ
時と場所: 1730年3月、パリ
第1幕 コメディ・フランセーズの舞台裏
看板女優のアドリアーナデュクロが競演する、コルネイユの『バジャゼ(Bajazet)』がまさに開幕しようとしている。舞台監督のミショネは大わらわ。一座のパトロン、ブイヨン公爵はデュクロにご執心。洒落物の修道院長を連れて舞台裏に現れる。アドリアーナが登場し、一人台詞の練習を始める。その素晴らしさに賞賛する皆に、アドリアーナは謙遜して、アリア「私は創造の神の慎ましい下僕にすぎません」と歌う。
デュクロに会えなかった公爵は、彼女が手紙を書いていたことを知り、修道院長にその手紙を手に入れるよう命じる。
アドリアーナと二人きりになったミショネは、結婚する予定があると、それとなく彼女へのプロポーズを口にするが、アドリアーナには、すでにザクセン伯爵の旗手マウリツィオという恋人がいると説明する。合図がするのでミショネは去る。
マウリツィオが現れ、アリア「あなたの中に母の優しさと微笑みが」で、アドリアーナへの愛を歌う。彼らは今夜会うことを約束し、アドリアーナは彼のフラワーホール用に小さなスミレの花束を渡す。出番が近づいたので、二人は客席と舞台裏へ別れる。
公爵は、まんまとデュクロが書いた手紙を手に入れる。そこには「今晩11時、セーヌ川の別荘で」と書かれており、受取人はマウリツィオであった。その別荘は公爵がデュクロに与えたものであった。怒った公爵は逢引の邪魔をしようと、公演後に劇団全体を招いたパーティーを行うことにする。
舞台裏には再びミショネの姿があり、アドリアーナの演技を見ている。アリア「ここでモノローグだ」を歌い、人間味あふれる演技を絶賛し、自分のためではなくマウリツィオのために演じていることに嫉妬しあきらめの境地に至る。
マウリツィオは、デュクロからの手紙を受け取り、今夜の約束のキャンセルを、小道具である手紙にしたため、舞台上でそのことを知るように託し去る。
アドリアーナその伝言にがっかりしている。公爵はセーヌ川の別荘でのパーティーに皆に誘い、ザクセン伯爵が来ることをほのめかす。アドリアーナは、旗手マウリツィオの待遇改善を考えているので、そのパーティーに参加することにする。
第2幕 セーヌ川沿いの別荘 その日の夜
ブイヨン公爵夫人は、アリア「苦しみの快楽」を歌い、マウリツィオを心配しながら待っている。ようやくマウリツィオが登場するが、公爵夫人は胸のスミレを見て訝る。マウリツィオは彼女に「プレゼント」としてスミレを渡す。女王への政治的交渉を依頼していたマウリツィオは、進捗状況を聞くと安心して帰ろうとする。公爵夫人はそれを非難するが、彼はアリア「心は疲れて」を歌い、もはや彼女を愛していないと告白する。
そこに公爵や修道院長一行が現れる。彼女は急いで隠れる。公爵は、デュクロには飽きていたので、マウリツィオに与えることにする。アドリアーナがそこに現れ、マウリツィオが旗手ではなく、ザクセン伯爵自身であることを知る。彼はアドリアーナに、デュクロではなく政治的な依頼で会っていた貴婦人が隠れていて、逃亡を手配しなければならないと告げる。アドリアーナは彼を信頼し、助けることに同意する。家は暗くなり、アドリアーナは公爵夫人に、脱出のチャンス到来を告げる。しかし、二人の女性はお互いが恋敵であることを悟る。公爵が戻ってくるので、公爵夫人は急いで逃げ去る。そこにはブレスレットが落ちていた。
第3幕 ブイヨン公爵邸 数日後
パーティーの準備が進んでいる。公爵夫人は、恋敵が誰か気になっている。にわか化学者を気取っている公爵は、強力な毒薬について修道院長と話している。ミショネとアドリアーナが登場。公爵夫人はアドリアーナの声に聞き覚えを感じ、「マウリツィオが決闘で重症」とかまをかける。アドリアーナが失神しかけるので、公爵夫人は恋敵と確信する。そこにマウリツィオが現れ、その嘘を笑い飛ばし、アリア「ロシアのメンチコフは」を歌って、武勇伝を披露する。
バレエ「パリスの審判」が披露され、公爵夫人はスミレの花束を、アリアドネはブレスレットを見せ合い、お互いが恋敵と決定づける。その後余興としてアドリアーナが劇の一節を披露することになる。公爵夫人は、「見捨てられたアリアドネ」を提案するが、公爵が「フェードル(不倫の妻の話)」を頼むので、アドリアーナは見事に演じ切り、一同の喝采を集める。怒りに燃えた公爵夫人は、復讐を誓う。
第4幕 アドリアーナの家の一室 三月の夕方
今日はアドリアーナの誕生日。しかし、彼女は公爵邸でのパーティー以来、自宅に閉じこもっていた。ミショネが彼女を訪ね、怒りと嫉妬をなぐさめる。彼女の同僚が訪ねてきて、誕生日を祝いプレゼントとゴシップを持ってきて、彼女の心を和ませる。そして彼女にステージ復帰を提案する。彼女は復帰を約束する。
プレゼントの中に、マウリツィオからの小箱があり、彼女が開けてみると、中から強烈なガスとともに、マウリツィオに与えたスミレの花束が。アドリアーナは傷つき、花にキスをし、アリア「かわいそうな花」を歌い、暖炉の火の中に投げ入れる。
そこに、マウリツィオが現れ、彼女に求婚する。誤解も解け、彼らは抱きしめ合うが、彼女は急に意識がおかしくなる。花束に毒ガスが仕込まれていたのだ。過去の上演が走馬灯のように記憶に現れたあと、正気に戻り「あそこに光が」と歌い、一同呆然となる中、息を引き取る。
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先生にとって、とにかく公爵夫人が恐ろしいオペラです。本当に恐ろしい。これは、役柄上でもそうですが、音楽的にも恐ろしいのです。公爵夫人は、第2・3幕でしか歌わないのですが、公爵夫人の音型(モティーフ)が、あらゆるところに現れるのです。はっきりした形では、第2幕冒頭、公爵夫人のアリアの前奏として現れます。歌詞が入るのは、第2幕の夫人とアドリアーナのやり取りの場面で、マウリツィオへの激しい恋を夫人が歌います。
第1幕でアドリアーナとマウリツィオが愛を囁き合った後奏に、公爵夫人の音型が現れたり、第4幕の前奏、アドリアーナが家に籠っているときにも現れたりと、登場しなくても音で迫ってくる、本当に恐ろしいのです。
第2幕冒頭の公爵夫人の音型
第2幕冒頭の公爵夫人の音型
この第4幕の比較的長い前奏に、公爵夫人の音型が現れることを利用して、ここを幕間劇として公爵夫人が毒薬を仕込む演出をしていた公演がありました。2022年1月10日 札幌市教育文化会館大ホールで行われた「LCアルモーニカ」での上演です。北海道初演ということもあり、皆さん大変気合の入った演奏で、大変楽しむことができました。アドリアーナを歌われた「LCアルモーニカ」代表の南出薫さん始め、一人一人が役に集中し、持ち味を生かした熱演でしたが、特にミショネを歌われた三輪主恭さんが、歌も演技も、本当に素晴らしかった。
東京に集中しがちなオペラ上演ですが、地方都市でも立派な上演がたくさんあります。まずはお近くの上演で、お気に入りを見つけてみては。
アドリアーナ・ルクヴルール

参考CD

アドリアーナ:レナータ・テバルディ
指揮:フランコ・カプアーナ 他 (1961年 録音)
アドリアーナのテバルディ、マウリツィオのデル・モナコ、公爵夫人のシミオナート、この三者が強烈な録音です。他にも映像や録音がいろいろと出ていますが、これを凌ぐものはありません。
アドリアーナ・ルクヴルールCD