好きなことを好きなように綴ってきたこのブログですが、今回は記念すべき第100回目に当たるんだそうです。本当に好きなように書いてきたので、自分が今まで何回書いたかなんて、数えていませんし、数を稼ごうとも思っていませんでした。HP担当の方に「もうすぐ100回目です」と言われるまで、そんな意識は全くありませんでした。そのまま過ぎ去っても良かったのですが、今回は「100」にちなんだブログにしたいと思います。
まず「100」と言ってすぐ思い当たるのは、「第100番」とか、「作品100」とかですね。
1 ハイドン作曲 交響曲第100番「軍隊」Hob.I:100
ヨーゼフ・ハイドン(1732-1809)は、今でいうオーストリアの作曲家です。数多くの交響曲を作曲したことから、「交響曲の父」と呼ばれることもあります。
長年ハンガリーの貴族エステルハージ家に副楽長、そして楽長として仕え、ほとんどのジャンルのクラシック音楽を手掛けています。あまり知られていませんが、オペラも数多く作曲し、エステルハージ家の宮廷劇場で上演されました。
ハイドンの名声が上がると、国外からも作曲依頼も増えます。これに目を付けたのが、ヴァイオリニストで音楽興行主でもあった、ヨハン・ペーター・ザーロモン(1745-1815)でした。ザーロモンは、この頃ロンドンでコンサートを企画していました。
エステルハージ家の代が変わり、ハイドンがエステルハージ家から自由になった時、ザーロモンは、ウィーンにいたハイドンを口説き落とし、1791年から1792年と、1794年から1795年の2回、ハイドンをロンドンに招くことに成功します。この交響曲第100番「軍隊」は、2回目のロンドン滞在中に初演されました。
ハイドンの交響曲は100曲以上残されています。本人の知らないところで色々な「ニックネーム」を付けられて呼ばれることがあります。この「軍隊」は、どうやらハイドンの命名のよう。初演の予告新聞記事に「軍隊交響曲」との記述が見られます。第2楽章に現れる「信号ラッパ」のようなトランペットの音や、第2楽章と第4楽章に鳴り響く、トルコの軍楽隊で使われる楽器、すなわちトライアングル、シンバル、大太鼓が由来のようです。
なお、ハイドンの作品は、オランダの音楽学者、アントニー・ヴァン・ホーボーケン(1887-1983)によって整理され、ナンバリングされています。彼は、作品の書かれた順番にナンバリングするのではなく、まず作品をジャンルごとに分け、その上で書かれた順番に並べで整理しました。「軍隊」は、「Hob.I:100」という整理番号で、「Hob.」はホーボーケンの略、「I」は交響曲という分類、「100」は100番という意味です。他の作品もこれに倣っています。
こちらのCDで、ハイドン作曲 交響曲第100番「軍隊」Hob.I:100を、ヘルマン・シェルヘン指揮、ウィーン国立歌劇場管弦楽団の演奏をお聴きください。
2 ブラームス作曲 ヴァイオリンソナタ第2番 op.100
同じジャンルで100曲以上作品を残して、なおかつそれが有名な曲、なんてのはそうそうあるもんじゃありません。次は、作品番号(op.)が100のものを3つ取り上げます。
ヨハネス・ブラームス(1833-1897)は、北ドイツのハンブルクで生まれ、ウィーンで活躍した作曲家です。残念なことに、ブラームスはオペラを作曲しませんでした。その代わり、多くの歌曲を作曲し、声楽家なら必ず歌うような曲も存在します。
ブラームスでもっとも有名なのは、交響曲でしょうか。4曲残された作品は、どれも甲乙付け難い名曲として知られています。その中でも最も耳にすることが多いのは、交響曲第3番の第3楽章でしょうか。この哀愁を含んだ何とも言えないメロディーは、クラシックから飛び出し、いろいろな使われ方をしました。
1950年、フランク・シナトラが、「Take My Love」という題名で英語の歌詞をつけ、3拍子を4拍子にアレンジしてリリースしています。
また、フランスの作家、フランソワーズ・サガン(1935-2004)が、1959年に発表した小説「ブラームスはお好き」は、1961年に「さよならをもう一度」という題名で映画化され、イングリッド・バーグマンやイヴ・モンタン、アンソニー・パーキンスが銀幕を沸かせました。この映画全般に、このメロディーが使われています。
日本でも大貫妙子さんや平原綾香さんが、自作の歌詞を乗せて歌っていましたね。
あっ、話がそれました。今日ご紹介するのは、ブラームスのヴァイオリンソナタ第2番です。ブラームスは3曲のヴァイオリンソナタを作曲しています。大ヴァイオリニストのヨーゼフ・ヨアヒム(1831-1907)との友情で、名曲ヴァイオリン協奏曲は生まれ、ヨアヒムに献呈されています。しかしその後、ヨアヒムの家庭問題からその友情にひびが入ってしまい、このヴァイオリンソナタ第2番は、ヨーゼフ・ヘルメスベルガー1世(1828-1893)のヴァイオリンとブラームスのピアノにより初演されました。
あっ、話がそれました。今日ご紹介するのは、ブラームスのヴァイオリンソナタ第2番です。ブラームスは3曲のヴァイオリンソナタを作曲しています。大ヴァイオリニストのヨーゼフ・ヨアヒム(1831-1907)との友情で、名曲ヴァイオリン協奏曲は生まれ、ヨアヒムに献呈されています。しかしその後、ヨアヒムの家庭問題からその友情にひびが入ってしまい、このヴァイオリンソナタ第2番は、ヨーゼフ・ヘルメスベルガー1世(1828-1893)のヴァイオリンとブラームスのピアノにより初演されました。
この曲とオペラとのつながりを言われることがあります。それは、第1楽章の冒頭のメロディーが、ワーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の「優勝の歌」とそっくりだと言われることがあるのです。海外では、時々「マイスタージンガー・ソナタ」と呼ばれることもあるとか。また、作曲された街にちなんで、「トゥーン・ソナタ」と呼ばれることも。
そういえば、ハイドンが使った曲をブラームスが使ったという曲がありましたね。「ハイドンの主題による変奏曲」です。
ブラームス作曲 ヴァイオリンソナタ第2番 op.100を、当コンクールの審査委員でもありますウェルナー・ヒンク先生のヴァイオリン、ジャスミンカ・スタンチュールの弾く、ウィーンの名器、ベーゼンドルファーのピアノによる演奏をこちらのCDでお楽しみください。
3 レーガー作曲 J.A.ヒラーの愉快な主題による変奏曲とフーガ op.100
マックス・レーガー(1873-1916)を知っていますか?ドイツの作曲家、ピアニスト、オルガニストとして知られています。レーガーもオペラを作曲していません。しかも交響曲もシンフォニエッタと呼ばれる曲しか作曲していないのです。ドイツの作曲家にしては珍しいですね。
「レーガーの最も有名な作品は?」と訊かないでください。こんにち日本で、頻繁に演奏されているレーガーの作品は、おそらく皆無です。しかし先生は、何だかこの作曲家の曲が落ち着くのです。今日ご紹介するのは、「変奏曲」と「フーガ」と呼ばれるジャンルの曲です。変奏曲とは、元になるメロディー(主題)を、いろいろアレンジして、だんだん盛り上げていく、そんなイメージの曲です。モーツァルトの「きらきら星変奏曲」が有名でしょうか。フーガは日本語で「遁走曲」と訳されます。こちらはもとになるメロディーが、追いかけっこするように何度も何度も繰り返し出てきます。そのメロディーも少しずつアレンジが加えられて、だんだん盛り上がっていきます。J.S.バッハの「小フーガト短調」が有名でしょうか。
レーガーはこういったメロディーをこねくり回してどんどんどんどん膨らめていく手腕に長けていると先生は思っています。この曲の他にも、ベートーヴェンの主題による変奏曲とフーガ、モーツァルトの主題による変奏曲とフーガが知られています。
今日ご紹介する「J.A.ヒラーの愉快な主題による変奏曲とフーガ」は、J.A.ヒラーことドイツの作曲家、ヨハン・アダム・ヒラー(1728-1804)による主題を使っています。ヒラーは「ジングシュピール」の生みの親とも言われています。ジングシュピールってなんでしたっけ?
レーガーはヒラーの「Der Ärndtekranz(『エルントの花冠』とでも訳すのでしょうか)」というジングシュピールの中のメロディーを料理して、11回の変奏を施しています。その後に、同じ主題をアレンジしたフーガが続きます。
NHK交響楽団にも長年客演していたホルスト・シュタインの指揮、バンベルク交響楽団の演奏で、レーガー作曲 J.A.ヒラーの愉快な主題による変奏曲とフーガ op.100をこちらのCDでお聴きください。
4 プロコフィエフ作曲 交響曲第5番 op.100
最後は、セルゲイ・プロコフィエフ(1891-1953)にご登場いただきましょう。プロコフィエフは現在懸案のウクライナ東部ドネツク州で生まれたロシア・ソ連の作曲家、ピアニストです。
プロコフィエフは、ロシア革命の混乱を避けて、大正中期の日本にしばらく滞在します。この間、日本の芸能に触れたり、演奏会を開いたりして過ごしました。彼の滞在は、日本の音楽界へ大きな影響を与えたと言えましょう。
彼は、全7曲の交響曲を残しています。しかし、第4番は17年のちに大幅に改定が行われ、違う作品番号が与えられており、時間的にも15分ほど長くなっています。違う作品とすると、8曲となります。
交響曲第5番は、ちょうどソ連とナチスドイツが結んでいた不可侵条約を破り、戦闘状態に突入したことが引き金となり、1944年に一気に作曲されたと言います。わかりやすい旋律や形式で書かれており、1945年のモスクワでの初演は大成功に終わり、同年アメリカでも初演されました。また、「作品100」という数字も、プロコフィエフを駆り立てたことは言うまでもありません。
プロコフィエフ作曲 交響曲第5番 op.100を、N響指揮者のパーヴォ・ヤルヴィのお父さん、ネーメ・ヤルヴィと、ロイヤル・スコティッシュ国立管弦楽団の全集はこちらのCDでどうぞ。