~今月の作曲家~「シェーンベルク」(2022年9月)

【ふじやまのぼる先生の作曲家紹介(9)】

シェーンベルク

Arnold Schönberg (1874–1951) ~1930 © Max Fenichel (1885–1942) OeNB 1208877
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アルノルト・シェーンベルク
(1874-1951)
アルノルト・シェーンベルク(Arnold Schönberg)は1874年9月13日にウィーンで生まれた現在でいうオーストリアの作曲家です。シェーンベルクの父は靴職人で、ユダヤ人でした。母は、ピアノ教師でした。アルノルトには二人の弟がいました。
8歳のころにヴァイオリンを習い始め、程なくしてチェロに転向します。この頃行進曲ポルカの作曲を手掛けています。1889年の大みそかに父親が亡くなると、家計に影響が出はじめ、彼は生計を助けるため学校を辞め、1891年から銀行で働き始めます。その後も音楽への情熱は失うことなく、オペラを観に通ったり、アマチュアオーケストラに参加したりしています。そのオーケストラの指揮者だったアレクサンダー・フォン・ツェムリンスキー(1872-1942)と知り合い、作曲を習います。しかし銀行は1895年に倒産。その後は作曲に専念します。またツェムリンスキーの紹介により、ウィーン周辺の様々な音楽団体(合唱が多い)と関係を結ぶことができました。そして1899年、今日知られている最初期の良く知られた作品である弦楽六重奏曲「清められた夜」が完成しました。そして1901年、師であるツェムリンスキーの妹マティルデ(1877-1923)と結婚し、翌年には娘のゲルトルート(1902-1947)が、その後息子のゲオルク(1906-1974)が生まれました。
1904年、二人の作曲家の卵がシェーンベルクの門をたたきます。それがアントン・フォン・ウェーベルン(1883-1945)とアルバン・ベルク(1885-1935)でした。この三人は非常に強い結びつきで知られており、特に「新ウィーン楽派」と称されます。このころから、シェーンベルクの作風は無調(調性の認められない音楽)に変化していきます。
アントン・フォン・ウェーベルン
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アントン・フォン・ウェーベルン(1883-1945)
Alban Berg (1885–1935) ~1930 © Max Fenichel (1885–1942)
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アルバン・ベルク(1885-1935)
このころの作品としては、交響詩「ペレアスとメリザンド」が挙げられます。これは師であり義兄ツェムリンスキーの交響詩「人魚姫」と同じ1905年1月25日の演奏会で、それぞれの作曲家自身の指揮で初演されました。モーリス・メーテルリンク(1862-1949)の戯曲「ペレアスとメリザンド」は、1893年に初演された、まだ新しい作品でした。音楽的も作品が多く、有名どころでは1898年ロンドンでの上演のためにガブリエル・フォーレ(1845-1924)が、また1902年に初演されたオペラとしてクロード・ドビュッシー(1862-1918)が作曲しています。シェーンベルクは最初オペラを構想していたようですが、ドビュッシーの作品を知り、交響詩という声楽を伴わない作品として仕上げました。この日のコンサートの批評は対照的なものでした。ツェムリンスキーの作品はそれなりの評価を得ましたが、シェーンベルクの作品は相当激しく批判されました。それは裏返すと注目を集めたということになります。ツェムリンスキーは失望し、その楽譜の存在が長らく不明となっていました。現在では、両作品とも演奏の機会があります。
1908年に初演された「弦楽四重奏曲第2番」に至り、「無調へ足を踏み込んだ」と言われています。この作品の第3・4楽章にはシュテファン・ゲオルゲ(1868-1933)の詩によるソプラノ独唱が加わります。初演では非常に激しい拒否反応があったとか。この頃、シェーンベルクは多くの絵画を残しています。多くの自画像風景画、ベルクやベルクの妻ヘレーネの肖像画も残しています。その数は361枚と言われています。とても作曲家の余技とは思えない作品ばかりで、驚かされます。
1909年には最初のオペラを手掛けます。マリー・パッペンハイム(1882-1966)の台本による「期待」です(パッペンハイムの肖像画も残されています)。オペラといっても登場人物は「女」ただ一人。長さもたった30分です。しかしその30分は、「恋人を探し、その死体を見つけ、この後どう生きるかを問う」という内容を、とてつもなく強烈な音楽で表現されています。
オペラ第2作は、「期待」の構想前から温めていた「幸福の手」です。これもソリストは「男」のみで、あとは黙役二人と、それぞれ六人の男女の合唱のみです。こちらはシェーンベルク自身が台本を書き、長さとしてはさらに短い20分足らず。「芸術的なものを生み出す手の持ち主が、現実的なものを求めるために自我と葛藤する」という内容。まさに、シェーンベルク自身の葛藤が聴いて取れる作品です。「期待」とダブルビルで上演されることもありますが、こんな作品を2つ続けて聴いたら、ちょっと疲れてしまうかも。
シェーンベルクのこの2つのオペラは、作曲されてから初演まで時間がかかりました。両方とも初演は1924年です。最先端のオペラを上演する環境がまだ整っていなかったのかもしれませんね。
1910年ウィーン・アカデミーで教職に就きますが、人種的差別で辞任、1911年ベルリンシュテルン音楽院での職を得て、ベルリンへ引っ越します。この地で、1900年頃作曲を始め、中断していた「グレの歌」を完成させます。「グレの歌」は、5人の独唱者、大規模な合唱と管弦楽を伴う、3部から成る2時間を超える大作です。聴いているとちょっとワーグナーを思わせるような部分もあり、シェーンベルクの作品では聴きやすい部類に入るでしょう。
1912年にベルリンで初演された「月に憑かれたピエロ」や、1913年にウィーンでフランツ・シュレーカー(1878-1934)の指揮により初演された「グレの歌」は、好意的に受け止められました。「月に憑かれたピエロ」はその後、10都市余りで巡回上演されました。この曲は21曲からなり3部で構成されている、ソプラノ独唱と器楽アンサンブルのための曲なのですが、その第18曲「月のしみ」は、ちょっとおもしろい構造になっています。月のしみが背中についたピエロが、自分の背中をのぞき込むと、音楽が元に戻るのです。例えば「ソ・ミ・ラ・レ・ファ」と続いてきた音楽が、振り向いた時点で「ファ・レ・ラ・ミ・ソ」と戻っていく、そんな構造になっています。
ピエロのイラスト

豆知識「シュプレヒシュティンメ」

シュプレヒシュティンメ(Sprechstimme)って知っていますか?これはドイツ語なのですが、「シュプレヒ」とは「話す」という意味、「シュティンメ」とは「声」という意味なので、直訳すると「話し声」となります。これは、歌い方の1つの方法で、普通に歌うのではなく、話をするように歌うことです。話し声には明確な音程がついていないので、音程をつけて話すように歌います。これはシェーンベルクが発明したものではありませんが、「月に憑かれたピエロ」「グレの歌」など、彼の作品には、この歌唱法が取り入れられているものが多くみられます。楽譜にも「シュプレヒシュティンメ」で歌うように指示があり、音符の棒の部分に×が付けられていたり、丸の部分が×になっていたりします。丸を×にする場合、白抜きの音符はひし形であらわされます。
ピエロ(楽譜)
モーゼ(楽譜)
この頃から、国際的にもシェーンベルクの名は知られるようになり、指揮も手掛けるようになります。多くの都市で自作を指揮するようになりますが、折り悪く第一次世界大戦が勃発。彼は徴兵され二度の兵役を経験します。この時患った喘息は、彼を生涯にわたって悩ませることになります。
戦後1918年、シェーンベルクは、ウィーン郊外のメードリングに居を構え、1925年まで住み続けます。ここには多くの門弟たちが集まることとなりました。また、1919年「私的演奏協会」を創立します。この協会の目的は、「アーティストや芸術愛好家に現代音楽の現実的で正確な知識を提供すること」でした。「マーラーから現在まで」の音楽を念頭に、入念なリハーサルを行い、会員のみが参加し、一般聴衆や音楽評論家は締め出すというものでした。観客にも拍手や歓声などを禁止する徹底ぶりだったとのこと。財政的には潤沢ではなかったため、大規模なオーケストラ作品を少人数のアンサンブルに編曲して演奏することも多々あり、これらの編曲版はいまでも演奏される機会があります。1921年に、財政的な理由で惜しまれつつも協会は閉鎖されてしまいました。しかしこの遺志を継いで、1922年ツェムリンスキーによって、後継協会がプラハに設立されました。当時ツェムリンスキーは、プラハの新ドイツ劇場で指揮者を務めていました(「期待」の初演は彼がこの劇場で行っています)。しかしこちらも長続きせず、1924年に閉鎖の憂き目にあいました。この頃、無調からさらに発展させた十二音技法を考案し、自作に取り入れ始めます。
1923年、妻のマティルデが亡くなります。シェーンベルクは弟子で、左利きのヴァイオリニストとして知られるルドルフ・コーリッシュ(1896-1978)の妹のゲルトルート(1898-1967)と再婚します。奇しくも先妻の娘と後妻が同じ名前!夫妻には、長女ヌリア・ドロテア(1932年生まれ)、長男ロナルド・ルドルフ(1937年生まれ)、次男ローレンス・アダム(1941年生まれ)という三人の子宝に恵まれます。ヌリア・ドロテアは、作曲家ルイージ・ノーノ(1924-1990)の妻となりました。
作曲家フェルッチョ・ブゾーニ(1866-1924)の死去に伴い、プロイセン芸術アカデミーでの職を手に入れたシェーンベルクは、健康上の理由で、すぐにベルリンに行くことができず、1926年に三度目のベルリン引っ越しを行いました。ここから1933年までは、ベルリンでの生活が続き、旺盛に作曲活動に取り組みます。「弦楽四重奏曲第3番」「管弦楽のための変奏曲」が初演されています。
1930年には3作目のオペラ「今日から明日へ」が初演されました。これは妻ゲルトルートが「マックス・ブロンダ」のペンネームで台本を書きました。これも1時間弱の作品で、たわいもない内容の家庭劇ではありますが、音楽的には複雑、まじめな重厚感あるもので、十二音が使われています。そんなことなので大した成功を収めず、聴衆は「敬意を払った沈黙」で反応したと言います。
ベルリンでの生活は充実していましたが、喘息持ちの彼にとってはなかなか辛い環境でした。先生もベルリンに滞在したことがありますが、冬は空気がとても乾燥していて、部屋には必ず水に濡らしたタオルを置いたり、ひどいときには床に水をまいたりして過ごしたものです。
1930年頃から最後のオペラである「モーゼとアロン」に取り組み始めます。彼は、信仰と宗教、また自身の出自について深く考えるようになります。このオペラは旧約聖書「出エジプト記」をもとに、シェーンベルク自身が台本を書きました。3幕仕立てで構成され、1932年頃までに第2幕まで完成させます。そんなシェーンベルクに、ユダヤの迫害が迫ります。1933年には「ナチス」が政権を握り、ユダヤ人政策により、ベルリンでの職は剥奪されます。身の危険を察知したシェーンベルクは、1933年にパリに亡命します。この地でユダヤ教に改宗し、1ヶ月ほどでアメリカに渡ります。この混乱で、「モーゼとアロン」は、第3幕の作曲に着手されることなく、その後も手を付けられることなく、未完成の作品として残されました。ただ、第3幕第1場のテキストは書かれているので、上演の際は、エピローグのような形で朗読されることもあります。
アメリカに渡ったシェーンベルクは、ニューヨークボストンで1年ほど過ごした後、ロサンゼルス郊外に居を構えます。この地には、ナチスの迫害を逃れた多くのユダヤ人が住むことになります。1935年には南カリフォルニア大学で、1936年にはカリフォルニア大学ロサンゼルス校で作曲の教授に就任します。このころ「ヴァイオリン協奏曲」「弦楽四重奏曲第4番」を作曲。この四重奏曲も義兄のコーリッシュの率いる四重奏団により、ロサンゼルスで初演されました。コーリッシュもユダヤ人のため、アメリカに亡命していました。
アメリカへ渡る・イラスト
この間、海の向こうのヨーロッパでは、悲しいことに「新ウィーン楽派」の一人で弟子であったアルバン・ベルクは、師に先立って1935年に亡くなります。そのベルクは「23」を運命の数字だと感じていたようですが、シェーンベルクは、「13」という数字を非常に恐れ、「13の倍数のである歳に死ぬ」と感じていたようです。1939年は65歳の年。この年は占星術師の手を借り、なんとか落ち着きを取り戻したとか。
ついに1941年には、アメリカの市民権を得ます。名前も「アーノルド・ショーンバーグ」と変更し、「ö(oウムラウト)」の使用をやめ、「Schoenberg」としました。その後、「ピアノ協奏曲」などの作品が作曲されました。1945年終戦。「新ウィーン楽派」のもう一人の弟子であったアントン・フォン・ウェーベルンは、終戦後アメリカ兵の誤射により殺されてしまいます。三人のうち唯一生き残った最年長のシェーンベルクでしたが、1946年、喘息の発作で心臓が停止。しかし奇跡的に回復します。その後、作曲に関する著作や、「ワルシャワの生き残り」が作曲されています。1949年にはウィーンの名誉市民の称号を得ます。
占星術師は次にこんな占いをしました。「76歳は7+6=13なので、この歳が致命的」と。余計なことを言う必要はなかったと思うのですが、その結果通り、1951年7月13日金曜日、76歳でシェーンベルクは亡くなりました。遺体は荼毘に付され、その遺灰は後にウィーンの中央墓地に埋葬されています。
シェーンベルクの墓石(1995年撮影)
シェーンベルクの墓石

シェーンベルクのオペラ

「モーゼとアロン」

「モーゼとアロン」は、未完成なオペラにもかかわらず、世界中のオペラハウスのレパートリーには入っています。第2幕第3場の「黄金の仔牛の音楽」のみ、死の直前の7月2日ドイツ・ダルムシュタットで初演されています。残された音楽は、1954年3月12日ハンブルクで、演奏会形式で初演されています。演出のついた舞台初演は、1957年6月6日チューリヒで行われました。大規模な複雑な作品なので、頻繁に上演というわけにはいきませんが、一流と呼ばれる劇場では上演され続けています。わが国では、残念ながら、海外のオペラハウスによる来日公演演奏会形式で、たった3種類しか上演の記録はありません。
あらすじ
第1幕
第1場
モーゼは神から、エジプトで捕らわれの身となっている選ばれた民であるユダヤ人を開放する預言者になるようにとのお告げを聞く。考えることは得意でも語ることの苦手なモーゼに、アロンをモーゼの舌として付ける。
第2場
砂漠でモーゼとアロンは出会う。二人の考え方は全く異なる。神というものは思考の中にあるというモーゼに対し、アロンは何かイメージできるもので神を説明しないとわからないという。
第3場
民衆は、モーゼとアロンから、新しい神のことを聞こうと集まっている。妄信するもの、拒絶するもの、不安を感じるものなど反応は様々。
第4場
アロンの説明でも、なかなか従前の神を捨てることのできない民衆。そこでアロンは様々な奇跡を見せる。まずアロンはモーゼの杖を蛇に変える。ファラオの司祭たちが異を唱えるので、次にモーゼの手を重い皮膚病に変えた上で、神宿るモーゼの心の上にその手を置いたときに癒される。なおも疑念を示す司祭を後目に、ナイル河の水を血に変える。民衆はついに血の奇跡に納得し、約束の地へ向かってエジプトから脱出する。
間奏曲
モーゼは40日間も山にこもり、民衆は砂漠で待っている。彼の長い不在に動揺した民衆は、神とモーゼが我々を見捨てたのではないかと疑問に思う。
第2幕
第1場
アロンは、きっとモーゼは戻ってくると説得する。
第2場
業を煮やした民衆と長老は、アロンに詰め寄る。仕方なくアロンは偶像崇拝を許す。
第3場
民衆は黄金を集め、黄金の仔牛像を作り、崇め奉る。生贄が捧げられ、乱痴気騒ぎが始まる。民衆が疲れ果てて眠り込んだ時、モーゼが降りてくる。
第4場
モーゼは神の戒律の書かれた石板を持って現れる。そして黄金の仔牛像を眼力で破壊する。民衆は恐れをなして逃げ去る
第5場
モーゼはアロンと対決する。アロンは、思考の代わりに目に見えるものを与えるしかなかったと弁明する。モーゼはアロンに石板を見せ、ここに書かれていることこそ思考そのものの力であると告げる。アロンは、その石板も目に見えるものではないか、と反論する。モーゼは石板を打ち砕く。後景では民衆が火の柱や雲の柱に導かれて、約束の地目指して進むのが見える。モーゼは絶望し、「私には言葉が欠けている」と大地に倒れる。
第3幕(台本のみ)
アロンが鎖につながれている。モーゼは、イメージと奇跡を通して、神の考えを偽造したと非難する。モーゼはもう一度アロンに、イメージや言葉で表現することができない唯一の神についての彼の考えを説明する。アロンは殺されずに、モーゼはアロンに生きるよう言い、釈放する。解放されたアロンは、地面に倒れて死ぬ。モーゼは、荒れ野にあっても、民衆は神と一体となるという目標に到達すると言う。

参考CD

モーゼ:ヴェルナー・ハーゼロイ
指揮:ヘルベルト・ケーゲル 他(1976年 録音)
「黄金の仔牛の踊り」の、何とも乱痴気騒ぎを音楽にしたような場面の上手いこと!これを聴くだけでもこのCDを手にする価値はあります。ヘルベルト・ケーゲル(1920-1990)は、先生の大好きな指揮者。実演を聴いてみたかった一人です。とくに現代音楽と呼ばれるものを振らせたらピカ一!「グレの歌」もケーゲルの指揮でよく聴きます。歌手が少し弱いと思われることが無きにしも非ずですが。東ドイツの終焉とともに、自殺して果てた指揮者の残した、素晴らしい遺産です。
シェーンベルクCD
実演に接することの少ないこのオペラですが、日本初演1970年、なんと50年以上前なのです。ちょうどこの年は、大阪で万国博覧会が開催されました。これに合わせて、東京と大阪での二公演ずつで、ベルリン・ドイツ・オペラによる来日公演でした。
次の舞台上演は2007年に来日したベルリン国立歌劇場による公演で、東京文化会館で三公演が行われました。先生はこのベルリン州立歌劇場の公演を聴くことができました。舞台としては空港のロビーか大きなホールのホワイエか、そんな閉鎖された空間で、皆黒のスーツサングラスという格好で、ちょうど「逃走中」のハンターがうじゃうじゃいる感じで、モーゼの言うように、「思考」しなければならない舞台だったと記憶しています。そんな中、黄金の仔牛ならぬ「黄金の像」が現れました。これだけが色を持った存在です。最後それが打ち倒される。こればかりははっきりわかったと思いました。
有名なオペラではないので、それなりに空席もあり、主催者にとっては苦渋の選択だったと想像できます。しかし、この公演は、一聴の価値はあったと思います。ユダヤ人であるダニエル・バレンボイムの思いと、圧倒的な統率力による演奏なくして、このオペラは成り立たなかったと思います。
ベルリン国立歌劇場来日公演プログラム
ベルリン国立歌劇場来日公演プログラム
配役表
配役表