~今月の作曲家~「ブリテン」(2022年11月)

【ふじやまのぼる先生の作曲家紹介(11)】

ブリテン

エドワード・ベンジャミン・ブリテン(Edward Benjamin Britten)は、1913年11月22日にイギリスのサフォーク州にあるローストフトで生まれたイギリスの作曲家です。ピアニスト、指揮者としても優れていました。父ロバート・ビクター(1878-1934)は歯科医、母イーディス・ローダ(1874-1937)は、アマチュアでソプラノを歌う歌手でした。4人きょうだいの4番目で、上に姉2人と兄1人がいましたが、音楽的才能を母から受け継いだのはベンジャミンだけでした。
ブリテンの出生地
イギリス・ローストフト
ブリテンが生後3ヶ月の時に肺炎にかかり、生死をさまよい、心臓も損傷したようですが奇跡的に回復し、テニスやクリケットを楽しむようになります。喜んだ母親は、ブリテンにピアノや楽譜の書き方を教えます。そして5歳で作曲7歳からは正式なピアノのレッスン10歳からはヴィオラも習うようになりました。
ヴィオラの先生であるオードリー・アルストンは、1924年ブリテンをノーフォーク・アンド・ノリッジ・フェスティバルに連れていきます。このフェスティバルは、病院建設のために演奏会を行い、寄付を募るというもので、1824年に始まり、その後3年に1度開催されました。1924年はその100周年に当たり、作曲家フランク・ブリッジ(1879-1941)の交響組曲「海」が、作曲家自身の指揮で演奏されました。ブリテンはこの演奏を聴き、"knocked sideways"まさに「横っ面を張り倒される」ほどの衝撃を受けたと言います。
3年後、アルストンは13歳になったブリテンを、再びフェスティバルに連れ出し、再びやって来たブリッジと対面させました。ブリテンは携えた自作楽譜をブリッジに見せ、ブリッジはその作品に感銘を受けます。ブリッジはブリテンにレッスンを施すためロンドンに来るよう勧めますが、その申し出は叶いませんでした。その結果、時間を見つけてはブリッジのいるロンドンへ通うという生活がスタートします。ロンドンではブリッジの作曲の基礎を学ぶ傍ら、ハロルド・サミュエル(1879-1937)からピアノのレッスンを受けることになりました。
1930年、ロンドン王立音楽大学(ロイヤル・カレッジ・オブ・ミュージック)に入学し、ジョン・アイルランド(1879–1962)に作曲を、アーサー・ベンジャミン(1893- 1960)にピアノを習います。この時期、ストラヴィンスキーショスタコーヴィチマーラーなどの音楽を知るようになります。またシェーンベルクベルクの音楽を通して、ベルクに師事すべくウィーンに留学する計画を立てますが、周囲の反対ベルクの死により実現することはありませんでした。大学時代には、「作品番号1(op.1)」が付けられた記念すべき「シンフォニエッタ」などが作曲され、注目を集めました。
大学卒業後は、父の死もあり、イギリス総合郵便局の下部組織であったGPOフィルム・ユニット社に勤務し、映画音楽の作曲を手掛けます。中には好評を受けた作品もありましたが、この時期の一番大きな成果は、詩人のW.H.オーデン(1907-1973)と知り合ったことでしょう。彼の死にブリテンは多くの音楽を付けています。「オーデン、どこかで聞いたことが…」と思った方は、このコーナーをよくお読みの方です。そう、ストラヴィンスキーのところでご紹介しましたね。オーデンは、ストラヴィンスキーのオペラ「放蕩者のなりゆき」の台本を書いています。
さて、フランク・ブリッジのもとを巣立ったブリテンでしたが、恩師を忘れたわけではありません。1937年には、ブリッジ作曲の「弦楽四重奏のための3つの牧歌」の第2曲から主題がとられた「フランク・ブリッジの主題による変奏曲」を作曲し、恩師に捧げました。この作品はブリテンの出世作となり、イギリス国外でも人気を集め、特にアメリカで人気を博しました。
弦楽四重奏のイラスト
1937年は、ブリテンにとって重要な年でした。彼に最初の音楽の手ほどきを行った最愛の母が亡くなります。彼は相当にショックを受けますが、その反面解放感もあったと言います。もう1つは彼と公私ともに生活をともにする盟友ピーター・ピアーズ(1910-1986)との出会いでした。優秀なテノールだったピアーズのために、ブリテンは数知れない作品を作曲し、ピアーズが創演しています。また、ピアーズのピアノ伴奏者として、数多くのツアーも行っています。
幼少期の学校生活が影響していると言われることがありますが、ブリテンは、平和主義者でした。この時期西欧は戦争への足音が大きくなりつつありました。そんな中平和主義者のブリテンは、相当肩身の狭い思いを感じます。また、ブリテンの作品への無理解と充分でないリハーサル。そんな環境を脱するためか、1939年にピアーズとともにカナダ、次いでアメリカを訪れています。アメリカを選んだのは、ブリッジがアメリカで成功していたというのもあるかもしれません。もう1つアメリカを訪れた理由がありました。それは、ブリテンがLGBTQ+であり、ピアーズとはそのような関係であったからとも言われています。同じくLGBTQ+であったオーデンもアメリカを訪れていました。
アメリカでは、作曲家のアーロン・コープランド(1900-1990)と知り合い、影響を受けています。あっ、コープランドもLGBTQ+ですね。アメリカ時代の重要な作品としてヴァイオリン協奏曲シンフォニア・ダ・レクイエムが挙げられます。シンフォニア・ダ・レクイエムは、鎮魂交響曲とも訳されるオーケストラのための作品です。これは曰く付きな作品で、日本に大きな関係のあるものでした。
レインボーフラッグ
シンフォニア・ダ・レクイエム(鎮魂交響曲)
1939年、アメリカにいたブリテンのもとにブリティッシュ・カウンシルから作曲の依頼が舞い込みます。それは日本政府から依頼のあった、皇紀2600年を記念した祝賀会で演奏される曲でした。日本政府は各国政府に同様の委嘱を行っており、ドイツリヒャルト・シュトラウス(1864-1949)が、フランスジャック・イベール(1890-1962)が、イタリアイルデブランド・ピツェッティ(1880-1964)が、ハンガリーヴェレシュ・シャーンドル(1907-1992)が作品を提供しています。ブリテンがなぜ祝賀演奏会の作品を「レクイエム」という曲名にしたか真意は不明ですが、「両親の思い出のため」と語ったともいわれています。しかし、名前だけが独り歩きし、「戦争に突き進む日本への皮肉」とか、「神武天皇の御霊に捧げた」とか、いろいろな憶測をされてしまいました。当然ながら日本政府からの抗議があり、祝賀演奏会では演奏されませんでした。ブリテンは気落ちしますが、予定より多い作曲料を受け取り、生活は潤ったようです。結局初演は1941年3月29日ジョン・バルビローリ指揮ニューヨーク・フィルハーモニックにより行われ、好評を得たといいます。皮肉なことに、日本初演は、ブリテン自身の指揮するNHK交響楽団が行いました。
本人の指揮する録音も残されていますが、先生はルドルフ・ケンペ指揮シュターツカペレ・ドレスデンの演奏が好きです。「レクイエム」と名付けられていますが、声楽は伴わず、オーケストラのみの作品です。第2楽章の強烈さは戦前の寄せ集めの日本人オーケストラには到底歯が立たなかったと推測されます。
ブリテンの鎮魂交響曲CD
シンフォニア・ダ・レクイエムは、その後セルゲイ・クーセヴィツキー(1874-1951)の指揮でも取り上げられます。この出会いが更にブリテンを高める結果をもたらします。その後、最初の劇作品であるオペレッタ「ポール・バニヤン」が作曲されました。その台本はオーデンによるものでしたが、その1941年の初演は否定的に受け止められたと言います。
郷愁の念やまず、1942年にブリテンとピアーズはイギリスに帰国します。彼らは、良心的兵役拒否者との認定を受けます。つまり、自分たちの良心に従い兵役には就かないというもの。その後クーセヴィツキーの申し出と援助(1,000ドルの供与ともいわれています)により、オペラの作曲に取り組みます。これこそブリテンの名を高めたオペラ「ピーター・グライムズ」でした。初演は戦時中閉鎖されていたサドラーズ・ウェルズ劇場の再オープン記念として、1945年6月7日に行われました。演出は、エリック・クロージャー(1914-1994)、ピーター役はもちろんピアーズ(ファーストネームが同じですね)。初演は、大変大きな成功を収めます。このオペラについては、最後に詳しくお話ししますね。しかし、ブリテンとピアーズの関係や、このオペラの内容について、劇場内では様々な声が聞こえてきました。ブリテン、ピアーズ、クロージャーたちは、この劇場との関係を断ち、後年、新たに「イングリッシュ・オペラ・グループ」を創設することになります。クロージャーは、ブリテンのためにオペラの台本やカンタータの歌詞を提供しています。
1945年の年末、ブリテンは英国放送協会(BBC)の音楽教育映画「Instruments of the Orchestra(オーケストラの楽器)」のために、「青少年のための管弦楽入門 パーセルの主題による変奏曲とフーガ」を作曲しました。これはブリテンよりもずっと以前に活躍したイギリスの作曲家ヘンリー・パーセル(1659-1695)の曲をテーマにした変奏曲という形式をとっています。テーマでは、全体で演奏した後、楽器のまとまりごと、つまり「木管楽器」、「金管楽器」、「弦楽器」、「打楽器」が紹介されます。続く変奏曲では、変奏ごとに各楽器が紹介されます。この曲には、クロージャーによって書かれた解説が付いており、初演の際は、クロージャーがナレーターとしてその解説を読み上げました。解説がなくても曲は成立するので、CDでは解説があるものとないものが発売されています。ブリテンの指揮によるCDには、解説が付いていませんでした。
ブリテンは次なるオペラ「ルクレツィアの凌辱」を、続けてクロージャーの台本によるオペラ「アルバート・ヘリング」を作曲します。両作品はグラインドボーン音楽祭で初演されますが、音楽祭の主催者であるジョン・クリスティ(1882-1962)からは酷評されます。もっとも、クリスティの目的は、「自分の理想的なモーツァルトのオペラの上演」であったため、ブリテンとは相容れないところがあったのではないでしょうか。
オールドバラに居を構えたブリテンたちは、イングリッシュ・オペラ・グループとして「ルクレツィアの凌辱」「アルバート・ヘリング」のツアーを行っていました。そんな時ピアーズがある提案をします。「自分たちの音楽祭(フェスティバル)を始めよう」。こうして創設されたのが「オールドバラ音楽祭(Aldeburgh Festival)」です。オペラだけではなく、様々なコンサートがあります。この音楽祭は現在も継承され、毎年6月に開催されています。
1950年代は、言い方が適当かはわかりませんが、オペラの時期といえます。「小さな煙突掃除(1949)」「ビリ・バッド(1951)」「グロリアーナ(1953)」「ねじの回転(1954)」「ノアの洪水(1957)」「夏の夜の夢(1960)」が作曲されました。オールドバラ音楽祭で初演された作品もありますが、ロイヤル・オペラ・ハウスヴェネツィアのフェニーチェ劇場で初演されたものもあります。「グロリアーナ」は、先日亡くなったエリザベス2世の戴冠式に合わせて初演された作品で、エリザベス1世の話を元にしています。「ビリー・バッド」は、以前ご紹介した、軍艦の上で展開する男だらけのオペラです。また、フェニーチェ劇場で初演された「ねじの回転」は、心理劇として注目される作品です。
1956年、ブリテンはピアーズとともにアジアを訪問。バリ島のガムランに心惹かれ、日本の能「隅田川」を感慨深く鑑賞したといいます。後年「隅田川」をもとに、オペラ「カーリュー・リヴァー」を作曲しています。この訪日でピアーズとの歌曲リサイタルを開催したほか、「シンフォニア・ダ・レクイエム」日本初演も行っています。
戦争レクイエム
イギリス中部コヴェントリーにある聖ミカエル大聖堂は、1940年の空襲により無残な姿になっていました。戦後再建の動きが高まり、献堂式で演奏される音楽の作曲依頼がブリテンのもとへ舞い込みます。ブリテンには構想を温めていたものがあったのでしょう。その結果、ブリテンの名を永久たらしめる作品「戦争レクイエム」と結実します。モーツァルトヴェルディのレクイエムはラテン語で書かれ、使われる詞も決められています。ブリテンはこの決められたレクイエムの歌詞に加え、第1次世界大戦で戦死した詩人のウィルフレッド・オーウェン(1893-1918)の詞を織り交ぜて作曲し、1時間30分を要する大作に仕上げています。また、ソプラノテノールバリトンのソリストには、第2次世界大戦で戦ったソヴィエトイギリスドイツの歌手を念頭に作曲されました。初演にソヴィエトの歌手が参加することは叶いませんでしたが、下記のブリテン指揮の録音では、3者が揃っています。このCDには、隠し撮りされたリハーサルの様子が納められています。ブリテン本人は、その存在に嫌悪感を覚えたと言いますが、我々視聴者にとっては、貴重な資料です。なお聖ミカエル大聖堂は、再建された新しい大聖堂の横に、破壊を免れた塔などが保存されています。このようなモニュメント的な保存はヨーロッパで多く見られ、ハンブルクベルリンなどでも街中で戦争の悲惨さを知ることが出来ます。原爆ドームもその1つですね。
戦争レクイエムのCD
ブリテンは、古くからソヴィエトの作曲家や演奏家との交流を持っていました。作曲家のドミトリー・ショスタコーヴィチ(1905-1975)、ピアニストのスヴァトスラフ・リヒテル(1915-1997)、チェリストのムスティスラフ・ロストロポーヴィチ(1927-2007)など枚挙にいとまがありません。ショスタコーヴィチは、1969年に初演された交響曲第14番(「死者の歌」との副題があります)をブリテンに捧げ、ブリテンはこの交響曲のオールドバラ音楽祭で行われたイギリス初演を指揮しています。また、リヒテルはブリテンと一緒にピアノを弾いたり、協奏曲のソリストとして登場したりしています。ブリテンのピアノ協奏曲は、このコンビによる録音が残されています。ロストロポーヴィチには、チェロソナタ3つのチェロ組曲チェロ交響曲を作曲しています。
1970年頃から心臓を患い、手術を行いましたが、創作は続けられ、最後のオペラ「ヴェニスに死す」を作曲。1973年に初演されました。1976年には、作曲家として初めて終身男爵の称号を受け、サフォーク州オールドバラのブリテン男爵となりました。そして、1976年12月4日、ピアーズに見守られながら63歳の生涯を閉じました。
ブリテンは、作曲だけでなく優れたピアニスト・指揮者としても多くの録音を残しています。ブリテンの指揮するモーツァルトは絶品で、交響曲リヒテルクリフォード・カーゾン(1907-1982)をソリストとしたピアノ協奏曲などが残され、確固たる音楽づくりの中に垣間見られる優しい表情が先生は好きです。

ブリテンのオペラ

ブリテンは、16作のオペラ・オペレッタを作曲しています。ほとんどの作品が日本でも上演されています。「小さな煙突掃除」は、先生の母校の高校でも以前上演した記録があります。後期のオペラの方がすばらしいという意見もありますが、一番有名で人気があるのは、「ピーター・グライムズ」です。
ブリテンのオペラ一覧
ブリテン作品一覧

「​ピーター・グライムズ」

あらすじ
イギリス東海岸漁村に住むピーター・グライムズは、他の住民とはなかなか相容れず、徒弟の少年を雇って漁師として生計を立てていた。
プロローグ 村の公会堂
雇っていた少年が死んだ件で、ピーターの公判が行われている。皆はピーターの有罪を信じているが、事件性はなく事故として処理され、判事から少年を雇うことを禁止され閉廷となる。未亡人で教師のエレン・オーフォードは、ピーターを慰める。エレンとピーターの二重唱は違う調性で始まり、違う世界に生きる二人を物語っているが、最後には同じ調性で美しく終わる。
 間奏曲「夜明け」】
第1幕第1場 海岸通り、パブ「いのしし亭」
物憂げに皆が朝の支度をしている。退役船長ボルストロードは海を見つめ、嵐が来ると皆に伝える。徒弟を失ったピーターが、手助けを求めるが誰も耳を貸さない。見かねたボルストロードと薬屋のキーンが手を貸し、キーンは孤児院から新しい徒弟を見つけてやる。そのことに皆が非難するが、エレンは「罪なき者まず石もてうて」と歌い、彼女が徒弟を迎えに行くことにする。ボルストロードはピーターにこの土地を出る気はないかと忠告するが、ピーターは金を稼いでエレンと結婚し、村人たちを見返してやりたいと答える。嵐が激しくなる。ボルストロードはパブに入り、ピーターは「どんな港が平和を守るのか」を歌い、嵐の中に立ち尽くす。
 間奏曲「嵐」】
第1幕第2場 パブ「いのしし亭」の中
 嵐を避けて、パブの中はごった返している。人々の思惑も様々。キーンがやってきて、ピーターの家の近くが崩れたと知らせる。そこへピーターが現れ「おおぐま座とすばるは」と、わけのわからない歌を歌い出す。瓶で殴られそうになるのをボルストロードが助け、キーンは「ジョーじいさんが海に行き」と場を和ませるために陽気な歌を歌い出す。そこにエレンが新たな徒弟のジョンを連れてくる。ピーターは、皆の視線を顧みず、彼をすぐに自分の家へ連れていく。
 間奏曲「日曜日の朝」】
第2幕第1場 第1幕第1場と同じ海岸通り
日曜日の朝。皆は教会に集まっている。エレンはジョンの面倒を見ているが、彼の首に叩かれた傷があるのを見て、ジョンが手荒く扱われていることに気付く。現れたピーターは、ジョンを連れて漁に行こうとする。エレンは「今日は安息日だから休養を」と言うが、金を稼いでエレンと結婚することを考えているピーターは、全く取り合わない。エレンにジョンの傷を問いただされると、あいまいに答えるのみ。エレンの「金で人の噂は止められない」の一言で、ピーターは彼女を殴ってしまい、ジョンを連れて逃げる。この騒ぎはすぐに村全体に広がり、村人たちは「今こそ噂が本当かどうか」と言いあいながら、ピーターの家へと向かう。
教会のイラスト
 間奏曲「パッサカリア」】
第2幕第2場 ピーターの家
家と言っても逆さまにした舟でできた丸太小屋で、ピーターはジョンと漁の準備をしている。めそめそしているジョンに大金持ちになってエレンと結婚すると叫び、「夢の中で素晴らしい家を建てた」と歌う。しかし死んだかつての徒弟が、のどが渇いたと言っていたことを思い出す。そこに人々が近づいてくる声が聞こえるのでピーターは驚き、ジョンに急いで小屋の裏の崖をつたって船に向かうように言う。しかしジョンは足を踏み外して断崖の下に落ちてしまう。ピーターも崖を降りていく。人々は丸太小屋に来たものの、そこには誰もいない。彼らは「他人の生活に干渉するのは止めよう」と言いながら、家に帰っていく。
 間奏曲「月の光」】
第3幕第1場 第1幕第1場と同じ海岸通り
村人たちは公会堂でダンスを楽しんでいる。ピーターは人殺しだとの噂話が聞こえてくる。そのピーターは漁に行ったまま戻らない。エレンはボルストロードに、以前自分が刺繍したセーターが海岸に流れ着いたと話す。エレンは「子どものころの刺繍は」を静かに歌い出す。味方がいなくなった時こそ、私たちがピーターを護ってやろうと話す二人。しかし、そのセーターの話は立ち聞きされていて、ピーターの噂話に拍車をかけ、村人たちはピーター探索に出かける。
 間奏曲】
第3幕第2幕 第1場と同じ海岸通り
遠くから「グライムズ」と叫ぶ声が聞こえてくる。海岸通りにピーターがやつれ果てて現れる。ピーターは混乱しており、亡くなった少年やエレンのこと、「ジョーじいさん」の歌も去来する。そんなピーターを、エレンとボルストロードが見つけるが、彼はもはや二人をみとめることはできない。ボルストロードはピーターを船に乗せ、自ら舟を海に沈めるのだと言う。制止するエレンの声もむなしく、ピーターの舟は、沖へと出ていく。
翌朝、いつも通りの生活が始まる。沖に沈みかけている舟があるとの報告だが、誰も気に留めない。いつも通りの生活を歌う、エレンやボルストロードも加わった合唱で幕となる。
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ブリテンは、各場面の前に「間奏曲」を挟んでいます。彼は、この中から4曲を選んで、「4つの海の間奏曲」と名付けオーケストラ用の作品としています。
月の光のイラスト
「4つの海の間奏曲」
第1曲「夜明け」   第1幕第1場への間奏曲
第2曲「日曜日の朝」 第2幕第1場への間奏曲
第3曲「月の光」   第3幕第1場への間奏曲
第4曲「嵐」     第1幕第2場への間奏曲
この構成は、ブリテンの師匠であったフランク・ブリッジ交響組曲「海」とよく似ています。「横っ面を張り倒される」経験をした作品だけに、影響は絶大だったかのかもしれません。下記のように、第3・4曲は、同名になっています。
(第1曲「海の情景」、第2曲「泡立つ海」、第3曲「月の光」、第4曲「嵐」)

参考CD

こちらも作曲家自身の録音や映像がありますが、ちょっと違うものを選んでみました。
ピーター:アンソニー・ロルフ・ジョンソン
エレン:フェリシティ・ロット
ボルストロード:トーマス・アレン
指揮:ベルナルト・ハイティンク 他 (1992年 録音)
ベルナルト・ハイティンク(1929-2021)はオランダの指揮者で、アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団の首席指揮者(1961-1988)や、ロイヤル・オペラ・ハウスの音楽監督(1987-2002)など、錚々たるポストを歴任した人です。1992年のロイヤル・オペラ・ハウス来日公演では、モーツァルトのオペラを指揮していました。その後はもっぱらオーケストラとの来日が多く、2015年のロンドン交響楽団との来日が最後となりました。先生が最初にハイティンクの実演を聴いたのは1997年、ウィーンフィルとの来日公演でした。その後、シュターツカペレ・ドレスデンロンドン交響楽団との演奏を聴くことができました。すでに巨匠然として風格があり、安心して音楽に身を委ねることができた記憶があります。この録音では、イギリス人の歌手を中心に、音楽監督を務めるロイヤル・オペラ・ハウスの管弦楽団を指揮しているので、何よりも安心して聴くことができ、バッハやモーツァルトで美しいテノールを聴かせるロルフ・ジョンソン、伝説のカルロス・クライバー来日公演で「ばらの騎士」元帥夫人を歌ったロット、こちらもモーツァルトを得意とするアレンの三人が、英国伝統の美しい歌唱を聴かせています。なお、薬屋キーン役には、若き日のサイモン・キーンリサイドの名前も見えます。
ピーター・グライムズCD