「平和の日」Vol.1

【ふじやまのぼる先生のオペラ解説(32)】
少し珍しいオペラの上演が続きます。先生も勉強しつつ、皆さんにも聴いてもらえるようお届けしますね。
なかなか聞きなれないオペラの題名です。こんなオペラもあるんです。
リヒャルト・シュトラウス(1864-1949)は、ドイツを代表する作曲家です。あらゆるジャンルの作品を遺していて、オペラも15作品を数えます。一番有名な曲は、映画「2001年宇宙の旅」で使われた、交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」の冒頭でしょう。
Max Liebermann Bildnis Richard Strauss
Max Liebermann, Public domain, via Wikimedia Commons
リヒャルト・シュトラウス
(1864-1949)の肖像
さて、「平和の日」ですが、1935年頃から作曲が開始され、1938年7月24日にミュンヘンの州立歌劇場で初演されました。ここに至るまでの、シュトラウスとオペラの関係についてひも解いてみましょう。
リヒャルト・ゲオルク・シュトラウスは、1864年6月11日にミュンヘンで生まれた作曲家、指揮者です。父フランツ(1822-1905)は、ミュンヘンの宮廷歌劇場のホルン奏者で、母ヨゼフィーネ(1837-1910)は、現在も続くミュンヘンのビール醸造会社プショール家の出身でした。フランツのホルンは有名で、リヒャルト・ワーグナー(1813-1883)が、自分の作品を上演する際には必ず首席奏者として希望していたとか。ミュンヘンで行われた「トリスタンとイゾルデ」「ワルキューレ」などの初演のホルンを担当しました。
当のフランツは、ワーグナーとは人間的にも音楽的にも距離を置いていました。しかし、宮廷歌劇場ゆえ、自分の雇い主、つまりバイエルン王ルートヴィヒ2世(1845-1886[在位:1864-1886])が、「ワーグナー推し」だったため、好むと好まざるとにかかわらず、ワーグナーを演奏させられたのです。しかしフランツの「推し」は、ハイドンモーツァルトベートーヴェンといった古典音楽で、息子のリヒャルトにも、古典音楽を通して教育しました。嫌いだったワーグナーと同じ「リヒャルト」という名前を息子に付けたのはなぜでしょうね?

 ちょっとブレイク

先生の大好きなドイツビール。ミュンヘンといえば、オクトーバーフェスト!その公式ビール会社の1つが「ハッカー・プショール」です。ハッカー醸造所は1417年に設立されました。1793年、ハッカーの娘がプショール家に嫁ぎ、ノウハウを受け継いだプショール醸造所が起こります。その後両社は発展し続けます。両社は1972年に統合され、現在の名前になっています。行きつけのドイツビール屋さんに無理を言って、コースターを頂きました!
コースターの画像
さてリヒャルトの話に戻しましょう。めきめきと才能を表したリヒャルト少年ですが、初期の作品は古典然としたものが多いです。また父の職場に出入りし、自然とオーケストラの仕組みやリハーサルの方法、指揮法などを習得します。最初の交響曲は1881年に、ヘルマン・レーヴィ(1839-1900)の指揮で初演されています。父フランツは、その初演のためにいろいろとお膳立てをしたようで、レーヴィへもお礼をしようとします。レーヴィは、1883年にバイロイトで行われるワーグナーの「パルジファル」初演に、「フランツがホルン奏者として参加してくれれば」といったと言います。シュトラウスは、この交響曲をレーヴィに献呈しています。
その後、シュトラウスは指揮者として、ハンス・フォン・ビューロー(1830-1894)が率いていたマイニンゲン宮廷楽団に招かれます。今でこそ小さな街ですが、当時はザクセン=マイニンゲン公国の首都として、宮廷劇場と宮廷楽団がありました。現在も州立劇場として公演を続けていて、バリトンの谷口伸(たにぐちしん)さんが専属歌手を務められています。シュトラウスは、まず宮廷楽団の副指揮者に、その後1885年から1年間音楽監督となりました。ここでは大作曲家のヨハネス・ブラームス(1833-1897)に出会い、宮廷楽団は、ブラームス自身の指揮で交響曲第4番を初演しています。このとき、シュトラウスはトライアングル奏者として初演に参加しました。
さて、父から古典的音楽をもって教育を受けたシュトラウス。その意識を変えた人物がいました。宮廷楽団でコンサートマスターを務めていたアレクサンダー・リッター(1833-1896)です。リッターは、シュトラウスにワーグナーの素晴らしさを伝えます。何しろ、リッターはワーグナーの姪と結婚していましたから。またリッターは、ワーグナーのように自作のオペラ台本を書き、それを作曲するよう説得し、オペラ題材のアイディアまで与えています。ここで作られたのが処女作「グントラム」でした。1894年に行われた初演は、あえなく失敗。後年、シュトラウスは自分の別荘の一角に「グントラムの墓」なるものをつくっています。
シュトラウスが真のオペラ作曲家として世に認められる作品は、第3作の「サロメ(1905年初演)」でした。ここでは内容を詳しくお話ししませんが、強烈な作品であることは確かです。内容もなかなかです。近く公演がありますので、ご興味のある方はぜひ実際にお聴きになられてください。先生は大好きです!

「サロメ」の今後の公演

(1)新国立劇場での公演
2023年5月27日、30日、6月1日、4日
新国立劇場・公演詳細ページ
https://www.nntt.jac.go.jp/opera/salome/
​バイエルン州立劇場の総支配人であったアウグスト・エファーディング(1928-1999)演出の「サロメ」は、2000年に新国立劇場で初演されたのち、何度もいろいろな指揮者・キャストで上演されてきた、一種の「顔」のような演出です。今回は7度目の上演。先生は過去4度観ましたが、何度観ても飽きない演出です。新国立劇場での上演の後、札幌でも上演されます。
(2)札幌文化芸術劇場 hitaruでの公演
2023年6月11日、13日
札幌市民交流プラザ・公演詳細ページ
https://www.sapporo-community-plaza.jp/event.php?num=2916
(3)神奈川フィルでの公演
2023年6月24日 
みなとみらいホール(横浜市西区)
神奈川フィルハーモニー管弦楽団・公演詳細ページ
https://www.kanaphil.or.jp/concert/2515/
この公演には、ユダヤ人1として、第7回コンクール三浦環特別賞を受賞された小堀勇介さんが出演いたします。
(4)京都市交響楽団での公演
2023年7月15日
京都コンサートホール(京都市左京区)
https://www.kyoto-symphony.jp/concert/detail.php?id=1175&y=2023&m=7
(5)九州交響楽団での公演
2023年7月27日
アクロス福岡シンフォニーホール(福岡市中央区)
http://kyukyo.or.jp/cms/14537
第4作「エレクトラ(1909年初演)」作曲時に、シュトラウスと共同作業を行う台本作家との出会いがありました。ウィーン生まれの作家フーゴー・フォン・ホーフマンスタール(1874-1929)です。その後二人は、「ばらの騎士(1911年初演)」「ナクソス島のアリアドネ(改訂版:1916年初演)」「影のない女(1919年初演)」「エジプトのヘレナ(1928年初演)」「アラベラ(1933年初演)」という、6作のオペラを創作しました。

「エレクトラ」の今後の公演

東京交響楽団での公演
2023年5月12日(ミューザ川崎シンフォニーホール)
2023年5月14日(サントリーホール)
ミューザ川崎シンフォニーホール・公演詳細ページ
https://www.nntt.jac.go.jp/opera/salome/
こちらも壮絶なオペラ。なかなかなオペラなので、なかなか実演に出会えません。お聴き逃しなく。この公演には、第4の侍女として、第6回コンクール第3位およびオーディエンス賞を獲得された髙橋絵理さんが出演されます。
1929年、ホーフマンスタールは急逝します。息子が自殺した葬儀当日、卒中による死でした。「アラベラ」創作中のできごとで、第1幕の台本は完成していましたが、第2・3幕はまだ推敲の余地がありました。失意のシュトラウスは、ホーフマンスタールの遺稿をそのまま作曲しました。
その後、新たな作家として白羽の矢が立ったのは、ウィーン生まれの作家シュテファン・ツヴァイク(1881-1942)でした。ツヴァイクは、「マリー・アントワネット」「メアリー・スチュアート」といった伝記作家としても、評価を得ていました。二人は「無口な女(1935年初演)」を創作します。しかし、当時ナチスが政権を握っていて、ツヴァイクはユダヤ人でした。本来であれば、ユダヤ人の関わる作品は上演禁止なのですが、帝国音楽局総裁のシュトラウスが強引に初演させます。その時シュトラウスが、ツヴァイク宛てに、何の気なしに書かれたナチス批判の手紙がナチスの手に落ちます。こうして二人の関係は終焉を迎えます。ツヴァイクは、1934年イギリスに亡命。アメリカを経て、1941年ブラジルに渡ります。古き良きヨーロッパでの思い出を回想した「昨日の世界」を著し、最終的に再婚した妻と共に自殺しています。シュトラウスも総裁の地位を追われることになりました。
ちょっと長くなりましたので、ここでブレイク。
次回をお楽しみに!