~今月の作曲家~「スメタナ」(2023年3月)

【ふじやまのぼる先生の作曲家紹介(15)】

スメタナ

「ボヘーミアーのかーわよー、モールダーウよー」と歌ったことのある方は、ある程度の年齢を重ねた方でしょう。今、音楽の教科書には「モルダウ」という表記はあまり見られません。「ブルタバ(ヴルタヴァ)」と書かれています。今日は、その音楽を作曲したスメタナについて、お話ししましょう。
Smetana1854portrait
Geskel Saloman, Public domain, via Wikimedia Commons
スメタナの肖像
ベドルジハ・スメタナは、1824年3月2日に現在のチェコにあるリトミシュルに生まれた作曲家です。当時のリトミシュルは、オーストリア帝国に属しており、ドイツ語名「ライトミシュル」とも呼ばれていました。スメタナ家ではもっぱらドイツ語を話していたようです。スメタナ自身も自分のことを「フリードリヒ・スメタナ」と認識したり署名したりした記録があります。父フランチシェック・スメタナ(1777-1857)は、ベートーヴェンがあの「ワルトシュタイン・ソナタ」を献呈した、ヴァルトシュタイン伯爵家のビール醸造所醸造技師をしていました。母バルボラ(1792-1864)は、フランチシェックの3番目の妻でした。先妻の間にも複数の子どもがあったようですが全員女の子で、スメタナは待望の男の子として生まれました。ある記録によれば、スメタナには18人のきょうだいがいて、その11番目とのこと。バルボラは自身の子にも先妻の子にも、分け隔てなく愛情を注いだと言います。
父フランチシェックは、他の友人たちと同様、ドイツ語を習うときその先生からヴァイオリンも習っていたので、友人たちと弦楽四重奏を楽しんでいました。そんな父たちの演奏に早くから親しんだスメタナは、5歳のときアントニーン・フメリーク(1777-1849)に就き、ヴァイオリンを習い始めます。やがてピアノも習いますが、始めはヴァイオリンほど好きになれませんでした。しかしピアノへの興味の方が勝り、6歳にして公開演奏でピアノを披露するまでに至りました。
1831年、父がツェルニン伯爵家の醸造所への転勤に伴い、現在のチェコ南部にあるジンドジフーフ・フラデツ(ドイツ語名ノイハウス)に移ります。この地で、優れたヴァイオリニストでありオルガニストでもあったフランチシェック・イカヴェッツ(1800-1860)から音楽教育を受けます。またドイツ語の教育もこの地で受けています。ギムナジウムに通いますが学業は芳しくありませんでした。
1835年に、高齢の父が醸造所の仕事を引退し、ジンドジフーフ・フラデツから少し北のルズコヴィ・ロティツェの農場へと仕事を変えます。スメタナは農場から離れ、イフラヴァギムナジウムに通いますが、ホームシックとなり、落第してしまいます。そのため、1836年にニェメツキー・ブロート(現在はハヴリーチュクーフ・ブロート)の修道会の学校に転学しました。音楽ばかりに力を入れていたため、結果ははかばかしくありませんでしたが、後にチェコの進歩派の作家となるカレル・ハヴリーチェク・ボロフスキー(1821-1856)という友人を見つけました。
1839年、スメタナは父に懇願し、プラハで勉強する許可を得ます。プラハでは、いとこのヨゼフ・フランチシェック・スメタナ(1801–1861)の紹介で、ヨゼフ・ユングマン(1773–1847)の学校で学びますが、田舎出身のため馬鹿にされ、次第に学校へ行けなくなってしまいます。そんな時スメタナは、チェコ人としてのアイデンティティに目覚めたり、フランツ・リスト(1811-1886)のピアノ演奏を聴いたり、ベートーヴェンショパンを学んだりしています。そんな状況を察知した父は、スメタナを連れ戻そうとしますが、そこに助け舟を出したのは、いとこのヨゼフでした。1840年、ヨゼフのいるプルゼニ(ドイツ語名ピルゼン、ビールのピルスナーの生まれた街)の学校に移り、残りの学業を続けます。プルゼニでは、音楽好きの先生との出会いもあり、社交の場に紹介され、そこでピアノを披露することも多かったと言います。この時代、歌曲や舞曲の作曲が試みられており、心を寄せる女性のために作曲したポルカやワルツが残されています。その一人が、一時期寄宿していたコラールジ家の娘カテジナ・オティリア・コラージョヴァ(1827-1859)でした。カテジナは、ヨゼフ・プロクシュ(1794–1864)に就いてピアノを習っていました。
JosefProksch
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ヨゼフ・プロクシュ
(1794-1864)
スメタナは音楽家になると心に決めていましたが、父は息子が危ない橋を渡るようなことをさせたいはずもなく、学歴を生かし公務員などになってほしいと思っていました。ここでもいとこのヨゼフの尽力により父を説き伏せ、音楽家になるべくプラハへと旅立つのでした。
プラハへは、何のつて金銭的余裕もなく出てきたため、極貧の生活を送ります。ピアノを弾こうにも買うお金も借りるお金もありません。そんな中、彼に救いの手を差し伸べたのは、カテジナの母アンナでした。スメタナをカテジナが師事していたプロクシュに紹介したのです。プロクシュは盲目でしたが優れたピアニスト・教育者でした。また、この頃新たな職を得ることも叶います。レオポルド・トゥーン伯爵(1797–1877)の五人の子どもたちに音楽を教えるという仕事でした。こうして1844年から1847年まで、専門的な音楽教育を受けることができました。
この間、プラハを訪れたエクトル・ベルリオーズ(1803-1869)の演奏を聴いたり、トゥーン家を訪れたシューマン夫妻に会ったりして、大いに刺激を受けました。また、カテジナへの恋心も強くなっていきます。
1847年、プロクシュのもとを離れ、トゥーン家の仕事をカテジナに譲り辞したスメタナは、演奏旅行に出ますが、折からの政治上不安が災いし、一箇所のみで中止となってしまいました。そんな時、1848年に発生したフランス二月革命は各地に飛び火し、プラハでもハプスブルク家からの脱却を目指しての革命がおこります。スメタナも革命に参加し、革命を鼓舞する行進曲やチェコ語による歌曲を作曲、人々の間に名が知れ渡るようになります。革命は鎮圧されましたが、チェコ人の意思が示される形となり、意義は大きかったようです。
スメタナは、プラハに音楽学校を設立する計画を立てます。しかし、金銭的な余裕はありません。そこでフランツ・リストに、新作ピアノ曲「6つの性格的な小品」を献呈し、金銭的援助を受けようと手紙をしたためます。リストからは、すぐに温かい言葉の返信があり、経済的な援助はしなかったものの出版社を紹介し、結果として「6つの性格的な小品」は、スメタナの「作品1」として世に出ます。このかいあってか、1848年スメタナの学校が開校し、経済的にも安定することができました。
1849年8月27日、スメタナはカテジナと結婚します。二人の間には四人の女の子が生まれますが、成人したのは三女のゾフィー(1853-1902)だけで、音楽的な才能を見せていた長女のベドジーシカが亡くなった時のスメタナの悲しみは、「ピアノ三重奏曲ト短調」に現れています。

CD

このCDでピアノを弾いているクリスティアーネ・カライェーヴァは、先生のピアノの先生の先生に当たる方です。ウィーン国立音楽大学の先生でウィーン生まれですが、名前からそのルーツはチェコかスロヴァキアにあると思います。このCDには打って付けのピアニストでしょう。
参考CD(1)
1850年からプロクシュの勧めにより、革命で退位したフェルディナント1世(1793- 1875[在位:1835–1848])のための宮廷ピアニストとなります。フェルディナント1世は退位後、プラハ城に移り、余生を過ごしていました。この頃作曲されたピアノ曲は、リストの尽力により出版されています。1854年に行われた新皇帝フランツ=ヨーゼフ1世(1830-1916[在位:1848–1916])の結婚のために「祝典交響曲」を作曲、トゥーン伯爵の推薦状を添えて王宮に提出されますが、様々な理由を付けて却下されています。チェコ人の作品というのが、主な理由と言われています。
参考CD(2)
なかなか認められないスメタナは、外国に活躍の場を求め、スウェーデンのヨーテボリ(イェーテボリ)へと旅立ちます。これはピアニストのアレクサンダー・ドライショク(1818-1869)がこの地のフィルハーモニー協会の指揮者の仕事を勧めたことがきっかけでした。共に革命に参加したボロフスキーの死も故郷を離れる決心に影響しているかもしれません。1856年10月に、結核にかかっていたカテジナを残し、プラハを離れています。
ヨーテボリでは、スウェーデン人以外に多くの外国人とも親しくなり、演奏家指揮者教師の3つの肩書を持って、大いに活躍します。このくつろいだ環境に身を置こうと定住を決意。一度プラハに戻って妻と娘を伴ってヨーテボリに向かいます。その途中大恩あるリストをワイマールに訪ねています。
北国での生活は、カテジナの身体に良い影響は与えませんでした。そんな中スメタナは、病身の妻の面倒を見る傍ら、新たな恋をしています。彼の生徒であったフレイダ・ベネッケで、人妻でした。フレイダも病身の夫を抱えていたため、お互いその身の上を理解しあったうえでの秘めたる恋でした。彼女の名を音名に変えた「舞踏会のおもかげ」を作曲しています。
1859年カテジナは、のっぴきならない容態になります。「故郷へ帰りたい」という希望を叶えるため、プラハへと向かいますが、その途上のドレスデンでカテジナは亡くなります。スメタナは、悲しみを紛らわせるかのようにボヘミアやドイツをさまよい、再びリストを訪ねます。リストの夜会で「ピアノ三重奏曲」が演奏され、彼を喜ばせます。
久しぶりに弟のカレルに再会します。これがスメタナに転機をもたらせます。カレルの義理の妹バルボラ・フェルディナンディオヴァ([愛称ベッティーナ]1840–1908)に会い、たちまち恋してしまったのです。周囲の説得を続け、ヨーテボリに戻ってからの1860年7月10日に二人は結婚します。二人の間には二人の娘ズデンカ(1861–1936)、ボジェナ(1863–1941)が生まれています。ヨーテボリでスメタナはなくてはならない人物でしたが、何度かボヘミアと行き来するうちに、自分の存在場所はヨーテボリではないと感じ始めます。ついに1861年5月11日、彼はプラハの人となります。
そのプラハに新しくチェコ国民劇場が、仮劇場という形でできると発表され、その指揮者(楽長)の募集がありました。スメタナは当然応募します。しかしあえなく落選。プラハという街にとってスメタナは、ワーグナーやリストといった革新的な音楽家の仲間とみなされ、チェコ語ではなくドイツ語で話すスメタナを完全に門前払いした形でした。選ばれたのは、保守的なヤン・ネポムク・マイール(1818-1888)でした。そこでスメタナはチェコ語の猛勉強に励みます。そして仮劇場での上演を目指し、第1作目のオペラ「ボヘミアのブランデンブルク人」を作曲します。台本は、1848年の革命時に共に行動したカレル・サビナ(1813–1877)によるものでした。
Narodni divadlo Praha 1881
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チェコ国民劇場(1881開場当時)
Bohumil Roubalík Divadlo prozatímné
Bohumír Roubalík, Public domain, via Wikimedia Commons
仮劇場(1862年完成)
この第1作オペラは、1861年にヤン・フォン・ハラハ伯爵(1828-1909)が企画したチェコ語によるオペラ創作コンクールに応募したものでしたが、仮劇場の監督の妨害によりなかなか初演されず、上演が決まった後もマイールが指揮を拒否したこともあり、スメタナ自身の指揮1866年1月5日に初演され、大成功を収めます。しかし、上演は長続きせず、プラハ音楽院の院長の後任選びにも落選したスメタナは、失意に沈みます。また、このころから後年彼を悩ませる幻聴の症状が現れていました。
サビナは第2作目のオペラ台本を提供します。これが「売られた花嫁」でした。現在ではスメタナの代表作として知られているオペラですが、1866年5月30日に行われた初演は、当時は普墺戦争の最中ということもあり来場者もまばらで、賛否入り乱れ、2回の上演をもって打ち切られてしまいました。
戦争が終わり、3回目の上演の際、皇帝フランツ=ヨーゼフ1世が臨席され、「非常に楽しめた」とのお言葉を賜り、初めて成功を勝ち得ました。さらにスメタナは、2幕仕立てを3幕仕立てにし、セリフをレチタティーヴォ形式に変えるなどの手を入れ、現在知られている形にして大きな成功を得ました。このオペラは、後で詳しくお話ししますね。
戦争が終わって変わったことがありました。それは、マイール退任に伴い、スメタナが仮劇場の楽長に就任したことです。これにより、安定した収入を得ることができ、劇場のレパートリーに手を入れることも可能となりました。しかし同時に多くの敵を作ることにもなったのです。スメタナの最高傑作の1つと言っても過言ではない3作目のオペラ「ダリボール」が、1868年5月16日に初演されます。しかし、このオペラに対し、いわれなき「ワーグナーの亜流」との批判をもって、楽長から引きずり降ろそうという一派が現れます。しかし、文化人や劇場でヴィオラを弾いていたアントニーン・ドヴォルザーク(1841-1904)らの援護により、彼は解任されるどころか、1873年には芸術監督として高給をもって雇われることとなりました。
さて、1871年から翌年にかけて作曲された、次のオペラ「リブシェ」は、チェコの予言の女神リブシェを扱った愛国的な感情を注入した作品で、「何か特別な日」に上演してほしいと願っていました。しかし、「何か特別な日」はなかなか現れず、初演は1881年まで持ち越されました。
2つ続けて、内容の濃いオペラを作曲したスメタナは、次のオペラに「二人のやもめ」という軽い内容の喜劇を作曲しています。
1874年、幻聴の症状が顕著になります。その後まず右耳が聞こえなくなり、やがて左耳も聞こえなくなり、中途失聴者となってしましました。劇場の芸術監督も辞めざるを得ず、ヤブケニツェに住む娘のゾフィーのもとに、妻と二人の娘と身を寄せることになりました。この頃妻との関係は完全に破綻していて、離婚も考えられましたが、結局離婚することはありませんでした。
スメタナの窮状を知ったリストやかつての教え子トゥーン伯爵の娘のコーニッツ伯爵夫人エリーザベト(1831–1910)、フレイダをはじめとするヨーテボリの旧友から寄付金が届き、スメタナを喜ばせます。この頃から1879年までに作曲された作品が、現在連作交響詩「我が祖国」としてまとめられている6曲です。
第1曲「ヴィシェフラド(高い城)」
第2曲「ヴルタヴァ(モルダウ)」
第3曲「シャールカ」
第4曲「ボヘミアの森と草原から」
第5曲「ターボル」
第6曲「ブラニーク」
単独での公演もありますが、音楽的に結びついている作品なので、6つまとめて演奏されるべき作品です。先生は、ラファエル・クーベリック(1914-1996)がチェコ・フィルハーモニー管弦楽団を指揮する1991年11月2日の来日公演を、幸運にも聴くことができました。クーベリックが出てきたときから観客の期待感は半端ない物でした。NHKが収録していたおかげで、今でもCDで聴くことができ、その時の感動を思い出す事ができます。その前年に行われた「プラハの春」音楽祭での演奏よりも、ずっと素晴らしかったということでした。いくつかある最高のコンサートの1つです。
参考CD(3)
参考CD(4)
さて、完全に聴覚障害者となったスメタナでしたが、その後も前記の「我が祖国」をはじめとして多くの作品を作曲しています。最初は躊躇したオペラも作曲し、「口づけ」「秘密」「悪魔の壁」の3作品が残されました。外界から遮断された環境での作曲は、大変な苦労が伴ったことは想像に難くありません。耳の治療を受けるためにヨーロッパ各地の医師を訪ね歩きますが、効果はありませんでした。
仮劇場からの脱却を果たし新設されたプラハ国民劇場が、1881年6月11日に開場します。そのこけら落しで初演されたのが、スメタナが「何か特別な日」に上演してほしいと切望していた「リブシェ」でした。もはや反対派の妨害などはなく、真の意味での大成功を収めました。しかしその時、スメタナは聴力を完全に失っており、一音たりとも聴くことはできませんでしたが、オペラグラスを片手に、スコアに見入っていたと言います。華々しく開場した国民劇場でしたが、2か月後に火災に遭い、スメタナは聴力がないにも関わらず、演奏会で指揮をしたりピアノを演奏したりして、再建のための資金集めに尽力します。劇場は2年後に再建され、1883年11月18日の再オープンの際にも「リブシェ」が上演されました。嬉しいこともありました。「売られた花嫁」の100回公演記念が1882年に行われ、同年には「我が祖国」の全曲通しての初演が行われました。単独では初演されていましたが、スメタナの意思が叶った瞬間でした。
この頃スメタナの頭に血が溜まるようになり、言語障害の症状が出たり、記憶が途切れたりし始めます。また幻像を見たり精神錯乱の症状が現れたりしますが、そんな中でも作曲は続けられます。しかし、シェイクスピアの「十二夜」を原作としたオペラ「ヴィオラ」は、一部残されただけでついに完成させることはできませんでした。国民劇場の再オープンには姿を見せ喜びを味わったスメタナでしたが、60歳を祝うときには、彼はもはや自分のことがわかりませんでした。やむなく精神病院に入れられ、1884年5月12日亡くなります。
その功績のわりに受けた栄誉があまりにも少なかったスメタナ。現在はチェコ音楽の創始者的存在として、日本の音楽教育にも取り入れられるまでになりました。チェコには「プラハの春」というよく知られた音楽祭があります。そのオープニングは5月12日で、「我が祖国」演奏で始められます。その日はスメタナの命日に当たります。毎年、様々な指揮者が様々なオーケストラを演奏します。2002年には、小林研一郎さんがチェコ・フィルハーモニー管弦楽団を指揮しました。天国のスメタナも喜んでいることでしょう。

スメタナのオペラ

「売られた花嫁」

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「売られた花嫁」ピアノ初版譜の表紙(1872年)
「けしからん題名だ!」とお怒りになる向きもあろうかと思いますが、人身売買の話ではありませんのでご安心を。
あらすじ
生き生きとしたメロディーで始まる序曲。単独でもよく演奏会で演奏される。
第1幕 作曲された当時の、ボヘミアのとある農村の広場 片側に居酒屋がある
 春、村人たちは広場居酒屋に集まり、踊り騒いでいる。そんな中、農夫クルシナの娘マジェンカは浮かない顔をしている。恋人のイェニークが慰めるが、気分は晴れない。それは、マジェンカの両親が、大地主のミーハの息子のヴァシェクと結婚させようとしているから。イェニークがあまり心配しないので、マジェンカはアリア「もしも私がそんなことを」を歌い、他に好きな人がいるのかと疑う。両親がイェニークを良く思わないのは、素性が知れないということもあるのでマジェンカがそれとなく尋ねると、イェニークは、「母が死に、父親が再婚した継母と折り合いが悪く、家を飛び出した」と話す。二人は二重唱「母の愛は、神の恵み」を歌う。マジェンカの両親と結婚仲介者のケツァルがやってくるので、イェニークは去り、マジェンカは隠れる。
ケツァルはマジェンカの両親にヴァシェクとの結婚を熱心に勧める。コミカルな三重唱「申し上げたように」。そこにマジェンカが現れ、イェニーク以外とは結婚しないと断る。ケツァルは、「マジェンカの両親は、娘をミーハの息子の嫁にする」という古い誓約書を取り出すが、マジェンカは相手にしない。ケツァルは、イェニークが諦めるよう話すことにする。居酒屋の前では、村人が楽しくポルカを踊っている。
第2幕 村の居酒屋
男たちが、「ビールは天からの恵み」と歌っている。それに対しイェニークは、「愛は何物にも勝る」と歌う。ケツァルも負けずに「良いアドバイスと金」と応戦する。皆はフリアントを踊り、それが終わると店から出て行く。
誰もいなくなった居酒屋にヴァシェクが現れる。彼は、知恵遅れで吃音がある少年。そして、アリア「マ…マ…ママが…」と歌い、母親からマジェンカと結婚するように言われたので、会いに来たのだった。そこに当のマジェンカが現れヴァシェクに気付くが、ヴァシェクはマジェンカの顔を知らない。そこでマジェンカはヴァシェクに「あなたの結婚相手は酷いやつで、結婚したら虐められる」と言い、二重唱「私はかわいい女の子を知っている」と歌い、ヴァシェクは、マジェンカとの結婚は断り、その居酒屋にいた女の子と結婚すると約束する。
ケツァルは、イェニークにベラという金持ちの女性を紹介し、ミーハから頼まれているから、300グルデンでマジェンカを諦めてくれと持ち掛ける。イェニークは、「マジェンカは、ミーハの息子以外とは結婚しない」という条件で話に乗り、ついでに「マジェンカが、ミーハの息子と結婚した暁には、マジェンカの両親の借金はチャラにする」との条件を付け加えさせる。ケツァルが去った後、イェニークはアリア「どうやって皆が信じてくれるか」で、たとえいくら積まれてもマジェンカは手放さないと歌う。イェニークは、ケツァルが用意した契約書にサインする。集まってきたマジェンカの父や村人たちは、イェニークが恋人を売ったと知り、ひどい男と非難する。
第3幕 第1幕と同じ村の広場
ヴァシェクが、居酒屋にいた美しい娘を想って、恋の悩みを歌っている。そこに旅のサーカス団がやってくる。呆けながらヴァシェクは、美しい一座の花形エスメラルダに一目惚れ。エスメラルダも金持ちそうなこの若者を上手く誘惑し、サーカスを見に来るよう誘惑する。その時、熊役の芸人が酔いつぶれて、今夜の公演に出られないことがわかる。エスメラルダは、ヴァシェクを熊役に仕立て上げてしまう。ヴァシェクが一人残されているところに両親とケツァルが現れ、マジェンカとの結婚契約書にサインするよう勧めるが、ヴァシェクは嫌がって逃げ去る。
サーカステントのイラスト
そこへマジェンカが両親と現れ、イェニークが自分を金で売ったと言われるが信じない。ヴァシェクが連れ戻され、マジェンカと再会する。「この子なら結婚する」と言い出すヴァシェクに対し、少し考えさせてと一人になるマジェンカ。彼女はアリア「ああ、何という悲しみ!」を歌い、悲しい心の内を吐露する。
そこにイェニークが現れる。マジェンカは怒って、ヴァシェクと結婚すると言い出す。二重唱「何て強情な娘さん」。そこへミーハ夫妻とクルシナ夫妻が登場、マジェンカは、「約束通りミーハの息子と結婚する」と宣言する。その時ミーハは、何年も家を空けていた息子が目の前にいることに気付く。実はイェニークは、ミーハの先妻の息子だったのだ。誤解が解けたマジェンカは大喜び。ケツァルは悔しがり逃げ出す。折り悪く、サーカス団から熊が逃げたと大騒ぎになるが、実は着ぐるみを着たヴァシェクだとわかり、母親が彼を連れ去る。皆がマジェンカとイェニークを祝福する。
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「売られた花嫁」の上演案内

結婚のイラスト
ハイライトですが、金沢で上演があります。
石川県立音楽堂コンサートホール(金沢市昭和町)
2023年5月4日(木・祝)
https://www.gargan.jp/program/main/

参考CD

参考CD(1)
指揮:ズデニェク・コシュラー
マジェンカ:ガブリエラ・ベニャチコヴァー
イェニーク:ペテル・ドヴォルスキー 他(1980/1981年録音)
当時は、「チェコ・スロヴァキア」という国だったので、両国の音楽家が中心の録音です。ズデニェク・コシュラー(1928-1995)は、プラハ生まれの指揮者で、プラハ国民劇場首席指揮者を務めたので、スメタナの後輩に当たりますね。1984年には、スメタナ没後100年と生誕160年を記念して、スメタナのオペラ8作品の連続上演を行っているスメタナのスペシャリストと言っても過言ではありませんね。ガブリエラ・ベニャチコヴァーペテル・ドヴォルスキーは、スロヴァキアの歌手。ともに自国内以外にも、ウィーンなどで舞台に立っています。ベニャチコヴァーは、ベルリン・ドイツ・オペラの、ドヴォルスキーは、ミラノ・スカラ座ウィーン国立歌劇場ボローニャ歌劇場の来日公演でも歌っていますので、ご記憶の方も多いでしょう。
参考CD(5)
参考CD(2)
指揮:ルドルフ・ケンペ
マジェンカ(マリー):ピラール・ローレンガー
イェニーク(ハンス):フリッツ・ヴンダーリヒ 他(1962年録音)
これは、マックス・カルベック(1850-1921)のドイツ語訳による録音です。彼はイタリア語やロシア語、チェコ語などのオペラの台本をドイツ語に訳しました。それ以外にも音楽評論で知られています。登場人物の名前も、ドイツ語風に変えられています。何より、イェニーク(ハンス)を歌うフリッツ・ヴンダーリヒ(1930-1966)の歌を聴くべきCDです。ルドルフ・ケンペ(1910-1976)のツボを押さえた演奏も必聴。バンベルク交響楽団は、もともとはチェコが由来の団体。1940年にチェコのドイツ系住民によって創立されたプラハ・ドイツ・フィルハーモニー管弦楽団が前身です。ドイツが戦争に敗れた1945年、チェコにいたドイツ人は追放され、ドイツへと逃れます。オーケストラのメンバーも例外ではなく、チョコからそう遠くないバンベルクに集まって再結集したのがバンベルク交響楽団でした。ヨーゼフ・カイルベルト(1908-1968)やオイゲン・ヨッフム(1902-1987)、ホルスト・シュタイン(1928-2008)、ヘルベルト・ブロムシュテット、最近ではヤクブ・フルシャとの来日公演をお聴きになられた方もいるのでは。
参考CD(5)
その他のオペラCD
「ダリホール」
これは、ウィーン国立歌劇場でのライヴ録音です。ドイツ語訳によっています。
参考CD(6)
「リブシェ
「祝典オペラ」と銘打たれた「リブシェ」のCDです。プラハ国立劇場が、6年余りにわたる修築工事後の、1983年11月18日に落成した記念のライヴ録音です。この日は、かつてこの劇場が火災後に落成記念を行った日からちょうど100年後の公演でした。コシュラーの指揮で。
参考CD(6)
「秘密/ヴィオラ」
後期のオペラ「秘密」と未完成の「ヴィオラ」の断片的な録音です。どちらもコシュラーの指揮で。
参考CD(7)