~今月の作曲家~「カタラーニ」(2023年6月)

【ふじやまのぼる先生の作曲家紹介(18)】

カタラーニ

アルフレード・カタラーニ(Alfredo Catalani)は、1854年6月19日に、現在のイタリアのルッカに生まれました。誰ですか?「美味しそう」なんて言っているのは。それは、カタラーナ。
Alfredo Catalani 2
Unknown photographer, Public domain, via Wikimedia Commons
アルフレード・カタラーニ
(1854-1893)
お父さんのエウジェニオ・カタラーニは、ジョヴァンニ・パチーニ(1796-1867)の弟子で、幼い頃から息子にピアノや和声のレッスンをしていました。お母さんは、全寮制の学校の校長先生でした。
成長したカタラーニは、生まれ故郷ルッカのパチーニ音楽院(現在はボッケリーニ音楽院)でジャコモ・プッチーニ(1858-1924)の叔父、お母さんの弟にあたるフォルトゥナート・マジ(1839-1882)に対位法を学びます。その後パリ音楽院で学び、ミラノ音楽院でも研鑽を積みます。
ミラノ音楽院では、アントニオ・バッツィーニ(1818-1897)に教えを受けます。今日では、ヴァイオリンのための「妖精の踊り」でのみ知られているバッツィーニですが、プッチーニマスカーニの先生として記憶に留められています。彼は卒業作品として、1875年にアラブの羊飼いの物語である1幕物のオペラ「ラ・ファルチェ(鎌)」を初演。好評を得ます。何と、その台本を書いたのは、以前ご紹介したアッリーゴ・ボーイト(1842-1918)でした。カタラーニも、「スカピリアトゥーラ」と呼ばれる革新的な知的集団に属していたので、ボーイトとも交流があったのでしょうね。ミラノでは、ヴェルディの「アイーダ」の台本を書いたアントニオ・ギスランツォーニ(1824-1893)、後にプッチーニの名作オペラの台本を手掛けることになるジュゼッペ・ジャコーザ(1847-1906)などと交流を持ちました。ボーイトは、第2作目の台本を書く約束をします。ボーイトの紹介も、ご参照ください。
~今月の作曲家~「ボーイト」(2023年2月)(オペラコンクール・ブログ「トリッチ・トラッチ」)
https://www.suac.ac.jp/opera/blog/2023/02/00182/
以前リコルディ社ソンゾーニョ社の対立構図はお話ししましたね。このカタラーニが活躍した時代、もう一社「ルッカ社」という音楽出版社があったのです。ルッカ社は主にリヒャルト・ワーグナー(1813-1883)などのドイツの作曲家に目を付け、その多くを出版して、イタリアにワグネリアン(ワーグナー推し)を誕生させる一助となっていました。ワグネリアンだったカタラーニは、そのルッカ社の専属になり、三作のオペラ作曲の依頼を受けます。
カタラーニは、ボーイトの新たな台本を待ち望んでいました。その頃ボーイトはリコルディ社と関係を深め、アミルカレ・ポンキエッリ(1834-1886)やヴェルディのために台本を提供していました。この二人はリコルディ社の専属。ルッカ社専属のカタラーニと、ボーイトの間には距離ができてしまいました。仕方なくルッカ社専属の台本作家によるオペラ「エルダ」を作曲します。もとはライン河の「ローレライ」の話をオペラ化しようと考えていましたが、「ライン」というとあまりにもワーグナー的(「ラインの黄金」が連想されるのでしょう)との批判をかわすため、ライン河からバルト海に舞台を移したのです。「エルダ」は、1880年1月31日トリノで初演されました。まずまずの結果でしたが9回の上演に留まり、その後イタリアでは上演されることはありませんでした。
ルッカ社のための二作目のオペラは「デジャニーチェ」で、1883年3月17日ミラノ・スカラ座で初演されました。このオペラは、若きプッチーニから大絶賛を受けた作品です。また、三作目のオペラはギスランツォーニの台本による「エドメーア」で、1886年2月27日に、同じくミラノ・スカラ座で初演されています。指揮は、スカラ座の音楽監督であったフランコ・ファッチョ(1840-1891)が務めました。オテッロなどのヴェルディのオペラを初演したことでも知られるファッチョは、当時ミラノ音楽院の院長も務め、権力の絶頂にあったと言えます。その後「エドメーア」は改定され、1886年11月4日にトリノのカリニャーノ劇場で再演されることになります。トリノでもファッチョ指揮の予定でしたが、彼の悪い癖として、若手オペラ作曲家の作品を自分勝手にカットしたり、手前勝手な解釈で演奏したりすることを知っていたカタラーニは、知人の勧めもあって、19歳のアルトゥーロ・トスカニーニ(1867–1957)に委ねることにします。デビュー前の新人起用に周囲は大反対。しかし、リハーサルが始まると、反対の声はピタッと無くなりました。トスカニーニは、成功裏にプロデビューを飾り、彼の名は全イタリアに知れ渡ることになります。
1888年、三つ巴だった出版業界に激震が走ります。ルッカ社がリコルディ社に吸収合併されてしまったのです。カタラーニはこの時点でリコルディ社の専属となります。この頃リコルディ社には、新進気鋭の作曲家としてプッチーニがいました。プッチーニはカタラーニと同じルッカの出身で、カタラーニの方が4歳年上。当然カタラーニはライバル心を燃やします。しかし、リコルディ社としては元ライバル会社の作曲家よりも、手塩にかけて育てているプッチーニの方を優遇します。一時期、カタラーニは、「プッチーニが盗作した」と騒ぐ事態にもなりました。同じく1888年、カタラーニはミラノ音楽院の作曲科の教授として迎えられます。
「エルダ」があまり上演されないことを、音楽評論家のジュゼッペ・デパーニス(1853-1942)が愁いで、カタラーニに「改作してはどうか」とアドバイスします。愛着のあったローレライの題材を、違うタイトルで初演せざるを得なかったカタラーニだったので、まず台本に手を入れ、題名も「ローレライ」に戻し、デパニースの援助もあり、トリノ歌劇場1890年2月16日に新装初演されました。初演は好評を持って迎えられ、めでたくリコルディ社から楽譜も出版されます。
ラ・ワリーCD
次作にして最終作の「ラ・ワリー」は、アルプスが舞台。彼は、肺結核を罹患しやすい家系で、兄や姉も肺結核で早くに亡くなっていました。日本でも、軽井沢などでの転地療養が行われていたように、カタラーニもアルプスの山麓でたびたび療養を行っていました。そんな事情もあり、「ラ・ワリー」のオペラ化は自分の使命と感じていたようで、命を削るようにし、また旧作を転用することもいとわず、作曲にいそしんだと伝わっています。
「ラ・ワリー」は、1892年1月20日ミラノ・スカラ座で初演され、大きな成功に包まれます。指揮は翌年ヴェルディの「ファルスタッフ」初演で指揮をすることになるエドアルド・マスケローニ(1852-1941)、ワリーは、後年プッチーニの「トスカ」のトスカ役を初演することになるエリクレア・ダルクレー(1860-1939)が務め、当時のスカラ座の最高の布陣で行われました。リコルディ社も大いに満足し、楽譜の売り上げも好調だったとか。
しかし、カタラーニにはその命がもう少ししか残されていませんでした。矢先、喀血し、1893年8月7日、39歳の若さで亡くなります。生まれ故郷のルッカではなく、ミラノのチミテロ・モニュメンターレに埋葬されています。この墓地には、ボーイトやトスカニーニも埋葬されています。

カタラーニのオペラ

「ラ・ワリー」

ドイツの女優であり引退後小説家であったヴィルヘルミーネ・フォン・ヒッレルン(1836–1916)の「ハゲワシのワリー」を原作としています。
あらすじ
1800年頃 チロル地方
第1幕 ホッホシュトッフ村 村の広場
村人たちが、この村の地主シュトロミンガーの70歳の誕生日を祝う宴会が開かれ、娘たちは踊り、男たちは射撃大会を行っている。シュトロミンガーの執事ゲルナーは、見事的を打ち抜き、皆の喝采を浴びる。そこへ、シュトロミンガーの娘のワリーを探しにツィター弾きの少年ワルター(ソプラノが歌う)がやって来る。彼は、エーデルワイスの歌「ある日ムルツォルの峰に向かって」を歌う。シュトロミンガーはこの歌の作者が娘のワリーと知って驚く。
隣村ソルデンの猟師ハーゲンバッハが、獲物の熊をかついでやって来る。村人たちが褒めるので、ハーゲンバッハは「険しい小道を」と、熊狩りの様子を歌う。一人シュトロミンガーは、苦々しい顔をして、ハーゲンバッハと口論になる。シュトロミンガーと、ハーゲンバッハの父親は、かつて敵対関係にあった。父親を侮辱されたハーゲンバッハはシュトロミンガーを突き倒す。
二人を仲裁したのはワリーだった。彼女の美しさにハーゲンバッハは惹かれる。彼は怒りを残しつつ去る。ワリーの様子を見たゲルナーは、ワリーがハーゲンバッハに一目ぼれしたことを悟り、そのことをシュトロミンガーに告げる。ゲルナーがワリーのことを愛していることを知っているシュトロミンガーはワリーを呼び、今日中にゲルナーと結婚するよう命令する。だがゲルナーを友人としてしか見られないワリーは、ゲルナーの告白を取り合おうとしない。シュトロミンガーは怒り、ゲルナーと結婚するか、親子の縁を切るか選ぶように言い渡す。一人になったワリーは、名アリア「さようなら、ふるさとの家よ」を歌い、家を出る決心をする。教会に行く村人たちが、ワリーの様子に驚き事情を訊くと、勘当され今日中に高い山へ出かけると告げるワリー。心配したワルターが駆け寄って来て、二人でエーデルワイスの歌を歌いながら山へと立ち去る。
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第7回コンクール第1位の鴫原さんが歌う「さようなら、ふるさとの家よ」
(下記動画で背景音楽として使用しています)
Mt. Fuji Opera- Interview with Prize Winners#1 -SHIGIHARA Nami 受賞者インタビュー(1)鴫原奈美​
https://www.youtube.com/watch?v=IGdasDk9kU0
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第2幕 第1幕から1年後 ソルデンの広場
今日は聖体祝日の祭りで、村人たちが皆着飾って来ている。老兵士は「父親が死んで遺産を継いだワリーもやって来るだろう」と噂する。また、「誰もその唇を奪ったものはいない」と話す。若者たちは、高慢ちきなワリーの鼻を明かしてやろうと意気込む。居合わせたハーゲンバッハも、ワリーと踊ってやろうとつぶやくが、彼は、居酒屋の女主人アフラと結婚することになってる。アフラは恋を弄んではいけないとハーゲンバッハに告げる。
そこへ着飾ったワリーがやって来る。若者たちは、彼女の美しさに見惚れ、踊りを申し込む。老兵士は年甲斐もなく、彼女に接吻踊りを申し込むが、彼女は「今日まで私がキスしたのは」と歌い、私からキスを奪うのは難しいと歌う。
ミサの時間になり皆は教会に入るが、ワリーの目の前にゲルナーが現れる。ワリーは金を渡してゲルナーを追い払おうとするが、ゲルナーは、ワリーに愛を訴える。しかしハーゲンバッハを愛しているワリーに相手にされないゲルナーは、ハーゲンバッハがアフラと結婚すると言うので、ワリーは途端に不機嫌になり、アフラの前で「こんなまずいものは飲めない」とグラスを地面に叩きつける。泣き出すアフラ。さらにワリーは、アフラに金貨を投げつける。ハーゲンバッハは、アフラに復讐を誓い、友達と金貨10枚を賭けて、「ワリーからキスを奪う」と彼女に踊りを申し込む。踊りながらハーゲンバッハはワリーに愛を囁き、ワリーもそれに応え、二人の踊りは熱を帯びてくる。そしてついにキスする。
金貨のイラスト
「アフラの復讐は叶った」と皆がはやし立てるので、ワリーはハーゲンバッハに騙されたと気付く。ワリーはゲルナーに、「まだ私を愛している?」と尋ねた上で、「ハーゲンバッハを殺してやりたい」とつぶやく。
第3幕 第2幕と同じ日の夜 ホッホシュトッフ村のワリーの家
ワルターに家まで送り届けられたワリーは、悲しみに打ちひしがれている。外から老兵士が、酔っぱらって歌っているのが聞こえる。ワルターが、「今夜は一緒にいようか」と言うが、彼女は独りで過ごしたいと断る。
老兵士の歌を聞き、ゲルナーが外に出てくる。老兵士と話したゲルナーは、ハーゲンバッハがやって来ることがわかり、橋のたもとに隠れる。
泣き崩れていたワリーだが、次第に気持ちが落ち着くと、「二度と安らぎは得られないでしょう」と歌い、ハーゲンバッハへの恨み言をつぶやくが、途端に自責の念に駆られ、ハーゲンバッハを許す気になり、ゲルナーに言ったことを取り消す必要を感じる。
そんな時ワリーに許しを乞うために、ハーゲンバッハが現れる。彼が橋にさしかかると、橋のたもとに隠れていたゲルナーは、ハーゲンバッハを後ろから突き飛ばし、ハーゲンバッハは、叫び声をあげながら崖の下に転落する。ワリーはその声に起き上がると、窓を叩く音がする。急いでドアを開けると、ゲルナーが「ハーゲンバッハを崖の下に突き落とした」と言う。ワリーはゲルナーを逃がし、近所に助けを求めると、急いで崖を下り、救助に向かう。幸いにもハーゲンバッハは生きていた。ワリーは傷ついたハーゲンバッハを担いで上がって来る。そして彼の顔にキスして、アフラに「私の家も畑もあなたのもの」といい、「奪われたキスを返したわ」と言い、ハーゲンバッハをアフラに渡す。
第4幕 一面雪に覆われたムルツォルの山の上の山小屋
ワリーは、人生を絶望し、山小屋の外にたたずんでいる。ワルターが登ってきて、安全な下界に下るように懇願するが、彼女の意思は揺るがない。ワリーは身に着けていた真珠の首飾りをワルターに渡し、彼を抱きしめると、「氷河を越える時にヨーデルを歌って」と頼み、涙を浮かべたワルターを帰す。一人になったワリーは、アリア「万年雪に囲まれて」を歌い、静かに死を思う。遠くからワルターのヨーデルが聞こえる。
雪山のイラスト
その時、ワリーの名前を呼ぶ声が聞こえてくる。初め、天からの使者の声かと思っていたワリーは、それがハーゲンバッハの声だと気付く。山を登って来たハーゲンバッハは、本当に愛しているのはワリーだけだと気付き、彼女に真の愛を告げ、赦しを得ようと山中にやって来たのである。ワリーも一度は彼を殺そうとした罪を告白する。全てを赦し合った二人は、固く抱擁する。
嵐が迫ってくる。二人は霧の中、帰り道を探そうと歩き始めるが、突然の雪崩が起こり、ハーゲンバッハは谷の下に落ちて行く。大声で彼を呼ぶワリーだったが、返事はなく、ワリーも彼の後を追って谷底に身を投げる。

豆知識「トスカニーニとラ・ワリー」

同じ墓地に埋葬されているカタラーニとトスカニーニ。二人は「エドメーア」の改定初演からの付き合いで、カタラーニ亡きあとも、トスカニーニは「ローレライ」や「ラ・ワリー」を定期的に指揮しました。また、カタラーニにとても愛着を持っていたらしく、長男には「ワルター」、長女には「ワリー」と名付けました。「ワルター」という名前は、「ローレライ」にも登場します。

参考CD

参考CD(1)
ワリー:レナータ・テバルディ
ハーゲンバッハ:マリオ・デル・モナコ
ゲルナー:ピエロ・カップッリッチ
指揮:ファウスト・クレヴァ 他 (1968年 録音)
このオペラの全曲レナータ・テバルディ(1922-2004)とマリオ・デル・モナコ(1915-1982)の黄金コンビによる録音です。二人の録音としては後期に当たり、先生の記憶では、テバルディの最後のオペラ全曲録音は1970年、デル・モナコは1969年だったと思います。もちろん、ライヴ録音はもう少し後年までありますが。「ラ・ワリー」は、このCDを持っていれば大丈夫というくらい、超有名な録音です。というか、日本国内では、この録音くらいしか、聴くすべがなかったですね。ファウスト・クレヴァ(1902-1971)は、イタリア出身のオペラ指揮者です。アメリカで活躍し、アメリカの市民権を得ています。アテネで「オルフェオとエウリディーチェ」を指揮している最中に、心臓発作で亡くなったそうです。
参考CD(1)
参考CD(2)
ワリー:エヴァ・マルトン
ハーゲンバッハ:フランシスコ・アライサ
ゲルナー:アラン・タイトゥス
指揮:ピンカス・スタインバーグ 他 (1968年 録音)
長らく(1)のみでこのオペラを聴いていた日本人にとって、待ちこがれた2番目の録音がこれです。現在は、ライヴ録音やDVDなども販売されているほか、You Tubeなどでも映像が見られますね。イタリア的な雰囲気は乏しいですが、舞台がイタリアではないので、これもありかなと思います。エヴァ・マルトンは大変重厚感のあるソプラノ。ワリー役にはちょっと大型すぎるかなと思いますが、立派な声です。彼女の名前を冠したコンクールが現在ブダペストで開催されています。アライサタイトゥスも過不足なく、スタインバーグの指揮も、アルプスの山々を想起させる音創りです。ちなみに、スタインバーグのお父さんウィリアム・スタインバーグ(1899-1978)も指揮者で、ナチスに追われたユダヤ人でした。生まれたときは、ヴィルヘルム・シュタインベルクと言いました。
参考CD(2)