~今月の作曲家~「ショスタコーヴィチ」(2023年9月)

【ふじやまのぼる先生の作曲家紹介(21)】

ショスタコーヴィチ

ドミトリー・ドミトリエヴィチ・ショスタコーヴィチ(Dmitri Dmitriyevich Shostakovich[Дмитрий Дмитриевич Шостакович])は、1906年9月25日(ロシア歴9月12日)にロシアのペテルブルクで生まれたソ連の作曲家です。ピアニスト、指揮者としても優れていました。彼は、15曲の交響曲を遺しています。いわば生涯を交響曲とともに過ごしてきたと言っても過言ではありません。
同名の父ドミトリー(1876-1922)はペテルブルク大学数学物理学を修め、元素周期表で知られるドミトリー・メンデレーエフ(1834-1907)のもとで技師として働いていました。母ソフィア(1888-1955)は、ペテルブルク音楽院のピアノ科の卒業生でした。3人きょうだいの真ん中で、姉マリヤと妹ゾーヤがいました。マリヤはピアニストに、ゾーヤは科学者になりました。それぞれの才能を受け継いだのですね。
ショスタコーヴィチの少年時代は、彼の国の体制が大きく転換するときでもありました。第一次世界大戦、二月革命、十月革命と、ロシアという国が無くなり、ソヴィエト連邦へと変わった時でした。1917年は、彼が11歳の年です。その後の人生を、ソ連という国に翻弄されるのです。
母ソフィアの手ほどきでピアノを始めたショスタコーヴィチは、1919年に母ソフィアも学んだペテルブルク音楽院に入学し、ピアノと作曲を学びます。大きな影響を受けたのは作曲家のアレクサンドル・グラズノフ(1865-1936)でした。この間父の死があったり、自身の結核の発症があったりして、ピアノ科は一足早く卒業し、転地療養としてクリミアへ向かいます。
ペテルブルクに戻ってから作曲科の卒業作品として、交響曲第1番が作曲され、1926年に初演されます。この作品を高く評価したのが、指揮者のブルーノ・ワルター(1876-1962)でした。あまり知られていませんがワルターは作曲も行っていたので、若いショスタコーヴィチの作品に共感するところがあったのかもしれません。初演の翌年(1927年)、ベルリン・フィルを指揮して「西側」に紹介しました。オットー・クレンペラー(1885-1973)やアルバン・ベルク(1885-1935)からも絶賛されています。またこの年ワルシャワで開催された第1回ショパンコンクールに参加。直前に虫垂炎になり、思うような演奏ができませんでしたが、とても良い演奏だったという記録も残っています。
革命後は、様々な空気が入り混じり、ショスタコーヴィチも前衛的な交響曲第2番「十月革命に捧げる」第3番「メーデー」を発表します。また、ニコライ・ゴーゴリ(1809-1852)の同名小説を原作とするオペラ「鼻」も作曲され、1930年に初演されます。また、1932年には、科学者のニーナと結婚しました。
先生は、この頃作曲されたピアノ協奏曲第1番をよく聴きます。この作品は、弦楽オーケストラトランペット独奏ピアノという、一風変わった編成となっていて、ベートーヴェンのピアノソナタ「熱情」からあからさまな引用があります。しかし、こうした自由な風潮は、ある一人の人物の台頭により陰りを見せることになります。それが、ヨシフ・スターリン(1878-1953)でした。
1934年、後に生物学者となる長女のガリーナが生まれます。ショスタコーヴィチはこの年、オペラ「ムチェンスク郡のマクベス夫人」をレニングラードで初演。それまでのロシア・ソ連のどのオペラとも違うこの作品に観客も批評家も賛否両論となりました。劇場は大賑わいとなり、ソ連以外でもアメリカやイギリス、スイスなどでも上演されたと言います。1936年、モスクワの3つの劇場はそれぞれが、このオペラを上演していました。話題作を見ようとスターリンがボリショイ劇場を訪れます。劇場側は称賛を受けると思い込み、ショスタコーヴィチを待機させますが、スターリンは4幕あるうちの第3幕が終わった時点で帰ってしまいます。一同不安に駆られていたところ、2日後の新聞に「音楽のかわりに荒唐無稽」という批判記事が出され、それ以来上演禁止となってしまいました。このことを受け、身の危険を感じた彼は、リハーサルまで行っていた交響曲第4番の初演をキャンセルし、新たな交響曲の作曲へ移ります。
交響曲第5番は、よく「革命」などという名前で呼ばれますが、日本人の「ニックネーム好き」が高じて付けられたもので、必要ありません。第5交響曲というとベートーヴェンですよね。日本人なら「運命」と呼ぶでしょう。ショスタコーヴィチは、ベートーヴェンの同じ番号の交響曲になぞらえ、「運命を乗り越えての勝利」という構図で作曲し、ソ連政府も聴衆もそれに踊らされ、大いに沸くこととなります。この曲で名誉を回復することができました。1938年には、後にピアニスト・指揮者となる長男のマクシムが生まれます。
1930年代の終わり、ソ連はナチス・ドイツとの戦闘に突入します。ドイツ軍はレニングラードを包囲。まさに極限状態で書かれた交響曲第7番「レニングラード」。彼は、「ファシズムとの闘い」としてこの曲を作曲したと言います。1942年に初演されたこの曲は大絶賛され、スターリン賞第1席を受賞しています。しかし彼は、「ファシズムはナチスだけではない(スターリンも…)」とも述べています。この曲の第1楽章は、同じメロディーが何度も繰り返され、高揚感を増していきます。以前、このメロディーに「ち~ち~んぶいぶい」と歌詞をつけたCMが放映されていました。また、このメロディーの後半は、レハールの「メリー・ウィドウ」「マキシムの歌」にそっくりで、そこで歌われる歌詞は、「祖国なんて知らんぷり」といったもの。なかなかのアイロニーです。しかし作曲家のバルトーク・ベーラ(1881-1945)は、「政府のために作曲するなんて」と発言し、この部分を「管弦楽のための協奏曲」に引用し、こちらもアイロニカルに響かせています。本当に政府の御用作曲家なら、もっと他にたくさんいました。ショスタコーヴィチは、政府に迎合しているように見えても、本質のところは、全く別の意識で作曲していたということは、作品を聴いたり、楽譜を見たりすればわかることです。
さて、戦争が終わり戦いに勝利したソ連。ショスタコーヴィチは交響曲第9番を作曲します。「第9番」というと、当然ベートーヴェンを思い出すため、ソ連政府は「何か戦争勝利的な大交響曲を発表してくれるのでは」と思っていました。ショスタコーヴィチ自身もそういった発言をしていたのです。しかし発表されたのは、ハイドンを思わせるような軽い交響曲でした。これにより、「ジダーノフ批判」と呼ばれる形式主義を理由とする非難を他の作曲家とともに浴びることとなってしまいます。これに対して、オラトリオ「森の歌」を作曲。上手く批判をかわすことに成功するだけでなく、スターリン賞を与えられています。
その後8年間、あえて交響曲を発表しなかったショスタコーヴィチが交響曲第10番を作曲するのは、あのスターリンが死んだからでした。気の毒に、作曲家のセルゲイ・プロコフィエフ(1891-1953)は、スターリンと同じ日に亡くなったのです。8年ぶりの交響曲発表に注目を集め、結果は賛否両論。初演の後も色々な論争が巻き起こり、雑誌「ソヴィエト音楽」での誌上論争に続いて、討論会が3日間にわたり開かれました。会場には多くの聴衆が集まったと言います。
ショスタコーヴィチの多くの交響曲は、エフゲニー・ムラヴィンスキー(1903-1988)によって初演されています。第5、6、8、9、10、12番の全6曲。録音も多く、ショスタコーヴィチのお手本的存在となっています。
1954年に妻ニーナを、1955年に母ソフィアを亡くします。息子マクシムには、親バカかと思わせる一面もあり、ピアノ協奏曲第2番は、マクシムのピアノソロによって1957年に初演。まだモスクワ音楽院の学生だった彼に献呈されています。また最後の交響曲となった交響曲第15番の初演は、マクシムの指揮によっています。
ショスタコーヴィチには自分の音型を使った作曲傾向がありました。Dmitri  Shostakovichのイニシャルをドイツ音名に変換した「D-S(Es)-C-H」、つまり「レ-ミのフラット-ド-シ」の4音です。これが顕著にみられるのは、弦楽四重奏曲第8番でしょう。執拗に、この4音が繰り返されます。
交響曲第11番第12番はそれぞれ「1905年」「1917年」という副題がついています。1905年は「ロシア第一革命」の年で、無防備な市民に対し皇帝の軍隊が発砲し数千人が亡くなった「血の日曜日事件」をモチーフとして作曲されました。また1917年は、交響曲第2番でもとりあげた、「十月革命」を取り上げています。
お蔵入りになった「ムチェンスク郡のマクベス夫人」ですが、ショスタコーヴィチは1950年代後半つまり、スターリンが死んだ頃から少しずつ手を入れていました。そして題名を「カテリーナ・イズマイロヴァ」と改め、1963年にモスクワで上演します。この改定では、新たに間奏曲が作曲されたりどぎつい部分をマイルドにしたりしました。その結果、熱狂的に歓迎されたと言います。日本初演もこの形で行われ、指揮は先日亡くなった外山雄三先生でした。このオペラについては、改めてお話ししますね。
交響曲第13番「バビ・ヤール」という副題がついています。この交響曲は、ソ連・ロシアの詩人エフゲニー・エフトゥシェンコ(1933-2017)が書いた同名の詩に作曲されたもので、バス独唱とバス合唱が歌います。詩の内容は、ソ連が無関心を装ってきた「ユダヤ人迫害」についてのもので、多くのアイロニーが含まれていました。ソ連当局からは、詩の変更を求められたり、歌手に圧力がかかったりしたため、初演は大きな関心を持って迎えられたと言います。
続く交響曲第14番「死者の歌」と題され、11の楽章からなっています。これはソプラノとバスの独唱付きの作品で、1969年に初演されました。この交響曲はイギリスの作曲家ベンジャミン・ブリテン(1913-1976)に捧げられ、ブリテンはイギリス初演の指揮者を務めています。
政治的な苦悩が多かったショスタコーヴィチですが、健康面にも悩まされていました。脊椎性小児麻痺による右手の麻痺や骨折、心臓病、最終的な死因は肺がんでした。1975年8月14日にモスクワで亡くなりました。
「ショスタコーヴィチの証言」という本があります。これを読むとびっくりします。今までの定説がひっくり返るようなことが多々出てきます。「偽証」ともいわれることがあります。まだお読みでない方で、ショスタコーヴィチファンの方は、読まないほうがよいかもしれません。ただ、ショスタコーヴィチが単なる御用作曲家ではなかったことはよくわかります。
書籍1

ショスタコーヴィチのオペラ

ムチェンスクのマクベス夫人

1934年に初演されながらもお蔵入りになったこのオペラ。現在では、改定された「カテリーナ・イズマイロヴァ」よりも、「ムチェンスク郡のマクベス夫人」として上演されることが多そうです。
主な登場人物
登場人物一覧
あらすじ
19世紀後半の中部ロシアのムツェンスク郡、およびシベリア街道
第1幕第1場 豪商イズマイロフ家
カテリーナがアリア「ああもう眠れやしない」を歌い退屈しきっている。夫のジノーヴィの間には子どもがおらず、舅のボリスとは折り合いが悪い。家事も大嫌い。そんな折、製粉所の土手が壊れたとジノーヴィが報告に来て、自分で見に行くと言う。ボリスはカテリーナに、留守の間、貞節を守ると約束させる。ジノーヴィが出かけた後、アクシーニャが、新しい使用人のセルゲイについて「女たらしで、前に仕えていた家のおかみさんとできてしまったので追い出された」とカテリーナ話す。
第1幕第2場 中庭
使用人たちがアクシーニャをからかっている。セルゲイを中心にそれはどんどんエスカレートし、まさに強姦しようとしたとき、カテリーナが現れ、一同一瞬にして静まる。カテリーナはセルゲイに対しアリオーソ「男たちが強いつもりでも」を歌う。セルゲイはカテリーナに興味を持ち、カテリーナに力比べを申し出る。取っ組み合いを始める二人。カテリーナはセルゲイに惹かれているのに気付く。ボリスが現れ、その様子を見て一喝。夫に話すぞと脅す。
第1幕第3場 カテリーナの寝室
ボリスがカテリーナに、「ろうそくがもったいないからさっさと寝ろ」という声がするので、カテリーナはしぶしぶベッドに入る。アリア「仔馬は雌馬のところに急ぎ」を歌いながら着替える。そこにセルゲイが忍んでやって来る。最初は「何の用?」と冷たいカテリーナだったか、セルゲイは本が読みたいと告げる。それは口実で、カテリーナへの想いを告げる。そしてカテリーナを強姦してしまう。事が終わり、カテリーナは「私は人妻だから帰って」と言うが、セルゲイは帰らない。ボリスの「もう寝たのか」と声もむなしく、二人は再びベッドへと向かう。
第2幕第1場 中庭 未明
年甲斐もなくカテリーナに欲情してしまったボリスは、アリア「年をとるのは」を歌い、中庭をうろつき、カテリーナに夜這いしようとしている。するとカテリーナの部屋からセルゲイが出てくるのを発見、すぐさま彼を捕まえ、「泥棒を捕まえた」と叫び、使用人たちを集める。皆が見ている前でボリスは、セルゲイを鞭で打ちつける。ドアに鍵を掛けられているカテリーナには、どうすることもできない。疲れて鞭うつのをやめたボリスは、血まみれになったセルゲイを倉庫に運ぶよう命じ、鍵をかける。そして、腹が減ったとカテリーナに食事の用意を命じる。カテリーナはそれにネズミ駆除の薬を混ぜて、ボリスに出す。上手そうに食べていたボリスだが、急に苦しみだす。カテリーナは、ボリスの身体を探り、倉庫の鍵を手に入れる。夜が明け、使用人たちが瀕死のボリスを発見する。ボリスは懺悔しながら、カテリーナを指さして死ぬ。
イラスト2
第2幕第2場 カテリーナの寝室
カテリーナのベッドでセルゲイと横になっている。セルゲイを心から愛しているカテリーナは、アリオーソ「眠っちゃだめよ」と歌うが、セルゲイは寝てばかり。一方で良心の呵責を感じているカテリーナは、「夫のベッドに情人を連れ込むとは」とボリスの幽霊を見るので、セルゲイに抱き着く。そこへ突然夫のジノーヴィが帰ってくるので、セルゲイは隠れる。夫から浮気について問いただされたカテリーナは、セルゲイに助けを求め、夫の前でセルゲイと熱いキスを交わす。身の危険を感じたジノーヴィだが時すでに遅く、無残に殺される。二人は、ジノーヴィの死体を穴倉に運んでいく。戻ってきたカテリーナは「これであんたは私の夫」と叫ぶ。
第3幕第1場 中庭
カテリーナとセルゲイの結婚式。今でもカテリーナは穴倉が気になり、うつろな視線を送っている。それをセルゲイがたしなめる。二人は教会へ向かう。誰もいない中庭にぼろを着た農夫が現れる。彼は、今や豪商の主に収まったセルゲイに焼きもちを焼いている。そして、カテリーナがいつも穴倉を見ているのは、きっといいワインが隠してあるからだろうと、穴倉の鍵を壊して入って行く。彼が見つけたのはワインなどではなく、ジノーヴィの死体。急いで警察署へと駆け出す。
第3幕第2場 警察署
カテリーナの結婚式に招かれなかった警察署長たちは、ムダに時を過ごしている。そこへ農夫が死体発見とご注進。警察署長たちは大喜びで現場へと向かう。
第3幕第3場 中庭
祝宴が続いている。カテリーナは、穴倉の鍵が壊されていることに気付く。しかし時すでに遅し、警察署長たちが現れ、二人は逮捕される。
第4幕 シベリア街道沿いの夕暮れの湖畔
殺人罪に問われた二人は、他の大勢の流刑者たちとともにシベリアに送られている。夜になり、男女の囚人は分けられるが、カテリーナは見張りに金を掴ませて、セルゲイのもとへ行く。しかしセルゲイは、「お前のせいで人生狂わされた」くらいにしか思っていない。アリア「喜びの代わりに」を歌い、人生を嘆く。セルゲイの目下の関心は、若い囚人ソニェートカだった。ソニェートカは言い寄るセルゲイに穴の開いた靴下を見せ、あの女から奪ってくるように言う。セルゲイはカテリーナに「さっきは悪かった」というので、カテリーナは喜ぶ。そして靴下が欲しいと言われるので、カテリーナは彼に与える。幸福感に浸るが、セルゲイは靴下をソニェートカに与え、暗闇に去る。絶望したカテリーナは、アリア「森の奥深くに」を歌い、死を決意する。事を済ませたセルゲイとソニェートカ。ソニェートカはわざとカテリーナに近付き、靴下のお礼を言いつつ彼女を嘲笑する。起床の時間となり、流刑者たちが歩き始める。急流にかかる橋。カテリーナはソニェートカを橋下に突き落とし、自分も飛び込む。助けるのは無理と、何事もなかったかのように、列は進んでいく。
「ムチェンスク郡のマクベス夫人」としての日本初演は、1992年のケルン歌劇場による来日公演でした。しかしこの上演は、ドイツ語訳によるものでした。1996年には、キーロフ歌劇場(現マリインスキー歌劇場)の上演があり、「ムチェンスク郡のマクベス夫人」と「カテリーナ・イズマイロヴァ」の2つが連日で公演されました。先生も両方観ましたが、違いは歴然。

参考CD

参考CD(1)
指揮:チョン・ミュンフン
カテリーナ:マリア・ユーイング
セルゲイ:セルゲイ・ラリン 他 (1992年録音)
チョン・ミュンフンは、とても端正な指揮をする人で、アジアの指揮者では一番の実力者と先生は思っています。オペラでもコンサートでも、破綻のない素晴らしい演奏を行います。こういったオペラでは、もう少しアクが強いといいなあと思うところもありますが、これがあれば、他のCDは必要ないかもしれませんね。歌手も適材適所。
参考CD(1)
参考CD(2)
指揮:インゴ・メッツマッハー
カテリーナ:アンゲラ・デノケ
ボリス:ミーシャ・ディディク 他 (2009年録音)
メッツマッハーは、劇場のひと。新日本フィルの指揮者としてもご存知の方も多いと思います。どの年代の作品もエキサイティングに聴かせる、先生一押しの指揮者です。こういった人に、こういった一筋縄ではいかないオペラを振らせると、何とおもしろいことでしょう!先生おすすめのCDです。ウィーンのオーケストラがここまで咆哮し官能的に演奏した例はそうそうありません。歌手もよいです。
参考CD(2)