~今月の作曲家~「ツェムリンスキー」(2023年10月)

【ふじやまのぼる先生の作曲家紹介(22)】

ツェムリンスキー

アレクサンダー・フォン・ツェムリンスキー(Alexander von Zemlinsky)は1871年10月14日にウィーンで生まれた現在でいうオーストリアの作曲家、指揮者です。ツェムリンスキーの名前にある貴族の称号である「von」ですが、特に爵位を得たという記録はなく、父親が勝手につけたものでした。両親ともにユダヤの血を引く家系で、ツェムリンスキーも、ユダヤ教の中で成長しました。父アドルフ(1845-1900)は、ジャーナリスト、作家でした。1877年には、妹のマティルデが生まれています。
Zemlinsky
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アレクサンダー・フォン・ツェムリンスキー
(1871-1942)
アドルフはどこからかピアノを借りてきて、自宅に住まわせた友人にピアノ教室を始めさせます。ツェムリンスキーも生徒の1人としてレッスンに加わり、めきめきと腕を上げていきます。そして、シナゴーグ合唱団の伴奏をしたりオルガンを弾いたりして、小銭を得るまでに成長します。
1884年、ウィーン音楽院に入学した彼は、ピアノをアントン・ドアー(1833-1919)に、作曲をロベルト・フックス(1847-1927)に師事します。その後、ピアノ演奏で様々な賞や栄誉を受け、ピアニストとして卒業しますが、ピアニストとして世に出ることを希望せず、作曲家志望として、音楽院に残ります。ロベルト・フックスの兄であるヨハン・ネポムク・フックス(1842-1899)にも師事しました。
1895年、ツェムリンスキーはアマチュア・オーケストラを結成し、「ポリュヒュムニア」と名付けました。そのメンバーの一人でチェロを弾いていたのが、アルノルト・シェーンベルク(1874-1951)でした。後に、ツェムリンスキーの妹マティルデがシェーンベルクの妻になっているので、この二人は義理の兄弟ということになります。この二人と父アドルフの三人によって台本が書かれた、ツェムリンスキーの最初のオペラ「ザレマ」が1897年にミュンヘン宮廷歌劇場で初演され、熱狂的に受け入れられます。しかし、その後ほとんど上演されることはありませんでした。また、この頃作曲された変ロ長調の交響曲は好評を博し、ベートーヴェン賞を得ています。
この頃のウィーンは、ハプスブルク帝国の首都であったため、主に東方からいろいろな人種の人々がいろいろな理由で押し寄せていました。当然いろいろな問題が引き起ります。その中の一つがユダヤ人問題でした。ウィーンの市長に反ユダヤ主義の人物が就任すると、多くのユダヤ人排斥問題が起こります。ツェムリンスキーも改宗に動き、結局ウィーンでは少数派のプロテスタントになりました。
1900年にウィーン宮廷歌劇場で初演されたメルヘンオペラ「昔あるとき…」は、当時の音楽監督だったグスタフ・マーラー(1860-1911)によって初演され、大成功を収めます。同じ年、カンタータ「春の埋葬」の初演を指揮したツェムリンスキーをこんな風に評した女性がいました。「まるでカリカチュア(風刺画)のよう。顎がなくて、背が低くて、目が出ていて、狂ったように指揮していた」と。この女性こそ、ファム・ファタールの代名詞ともいえる、アルマ・シントラー(1879-1964)でした。
アルマは、この風刺画のような男に作曲を師事することになり、次第にその才能に惚れこみます。一方、風刺画のような男は、狂ったように指揮、ではなく狂ったようにアルマを愛するようになります。あと少しで結婚、というところまで行くのですが、運命はそれを許しませんでした。アルマは、マーラーと結婚し、作曲の筆を折るよう命じられます。ツェムリンスキーは、1907年にイーダ・グットマンと結婚し、翌年娘のヨハンナ・マリアが生まれます。しかし、彼らの結婚生活はあまり幸福とは言えなかったようです。
1902年から1903年にかけて作曲された交響詩「人魚姫」は、1905年1月25日の演奏会で、ツェムリンスキー自身の指揮で初演されています。この演奏会には、義弟シェーンベルクの交響詩「ペレアスとメリザンド」も、シェーンベルクの指揮で初演されました。「人魚姫」は、まずますの反応でしたが、「ペレアスとメリザンド」は侃々諤々の反応。義弟にしてやられたツェムリンスキーは、発展的改作を試みるも断念。楽譜も行方知れずになってしまいました。後年発見され、現在では演奏会でも取り上げられています。
交響詩「人魚姫」のCDと公演プログラム
CD1
ツェムリンスキーを得意としているジェームス・コンロンの指揮で。
プログラム1
ウィーンが育んだコルンゴルトとツェムリンスキーという意欲的な大阪交響楽団のプログラム。
1904年から1906年にかけて作曲された「夢見るゲルゲ」というオペラは、ウィーン宮廷歌劇場からの委嘱でしたが、マーラーが音楽監督を辞任した影響で、初演には至らずそのままお蔵入りとなってしまいました。
「夢見るゲルゲ」のCDと公演プログラム
CD2
こちらもコンロンの指揮で。ケルンを中心に活躍された尾畑真知子さんのお名前が見えるのも嬉しいところです。
プログラム2
こういった作品を日本の聴衆に紹介してくれた、ゲルト・アルブレヒト(1935-2014)と読売日本交響楽団のプログラム。
 
1906年、ウィーンの第二の歌劇場として知られるウィーン・フォルクスオーパー初代首席指揮者に就任、この頃、「馬子にも衣裳」というオペラを作曲し、フォルクスオーパーで初演しています。彼は二度この作品を改作していますが、プログラムに定着するには至りませんでした。
1911年には、プラハドイツ国立劇場(現在のプラハ国立歌劇場)に転身。プラハに住むドイツ人のためのこの劇場では、ベートーヴェンの「フィデリオ」やワーグナーの「タンホイザー」などを指揮し、評価されます。「昔あるとき…」も上演されました。取りやめになっていた「夢見るゲルゲ」を初演しようとしますが、第一次世界大戦の激化により断念されました。結局再びお蔵入りになってしまったこのオペラは、1980年にニュルンベルクで初演されています。
第一次世界大戦後、ヨーロッパの地図は大きく書き換えられることになります。プラハもハプスブルク帝国の一都市から、チェコスロヴァキアの首都となりました。それに伴いウィーンへ戻ろうとしますが、なかなか良い職を見つけられず、この劇場には1927年まで留まることになります。その間シェーンベルクのオペラ「期待」を初演し、レパートリーの拡大を勧めます。
彼のオペラの中で、一番の知名度を誇るものは、オスカー・ワイルド(1854-1900)原作の「フィレンツェの悲劇」でしょう。一時間に満たないこのオペラには、濃縮された芳醇な音楽を聴くことができます。1917年にシュトゥットガルトで初演され、好評を博しました。このオペラについては、後でお話ししますね。
プラハ時代の作品としては、ワイルド原作のオペラ「こびと」と、インドの詩人・思想家のラビンドラナート・タゴール(1861-1941)の詩に作曲した「抒情交響曲」でしょう。「こびと」は、「王女の誕生日」とも呼ばれ、ケルンオットー・クレンペラー(1885-1973)指揮で初演されています。タゴールは、1913年にノーベル文学賞を受賞しています。彼は、アジア人初のノーベル賞受賞者でした。現在インドの国歌は、タゴールの作詞作曲によるものです。「抒情交響曲」は、ソプラノ独唱バリトン独唱を伴ったオーケストラ作品。ソプラノとバリトンが交互に歌う形式は、マーラーの「大地の歌」を彷彿とさせます。
「こびと」
CD3
アルブレヒトの指揮。ここでは、「王女の誕生日」というタイトルです。
「抒情交響曲」のCDとプログラム
CD4
バリトンは、先生の好きなボー・スコウフスの独唱で。
 
プログラム3
この公演では、コレペティトゥーア小埜寺美樹さんが、チェレスタを担当しておられました。もちろん、リハーサルでピアノ伴奏をしていたのも小埜寺さん。

 
プラハを去ったツェムリンスキーはベルリンに移り、クロル歌劇場でも指揮をしています。クロル歌劇場は、存在したのは40年弱ほどと短命でしたが、1927年から1931年までの4年余りは、クレンペラー音楽監督のもと、意欲的な活動を行っていました。新作の初演ばかりではなく、ベートーヴェンの「フィデリオ」では、現在につながる画期的な演出を行っていました。ベルリン国立歌劇場の第二劇場としての役割を担っていましたが、意欲的な上演には反対派がつきものです。また、ワイマール共和国下の経済状態では、複数のオペラハウスの運営は難しく、1931年のシーズン終了後閉鎖されてしまいました。この間の1929年、イーダ夫人が亡くなります。
1930年、声楽の生徒だったルイーゼ・ザクセルと結婚します。彼はオペラ「白墨の輪」を、結婚のプレゼントとして作曲しました。彼らは幸せな結婚生活を送ったと言います。このオペラは「灰闌記(かいらんき)」という元の李行甫(李行道)による雑劇を原作としています。この作品をドイツの詩人・劇作家のクラブント[本名アルフレート・ヘンシュケ](1890‐1928)が5幕の劇に仕立て、それをツェムリンスキーがオペラにしたのです。同じ「灰闌記」をもとに、ベルトルト・ブレヒト(1898-1956)が「コーカサスの白墨の輪」という作品に仕上げ、これを原作として林光(1931-2012)も「白墨の輪」というオペラを作曲しました。
「白墨の輪」
CD5
昨年、オペラ指揮中に亡くなったシュテファン・ゾルテス(1949-2022)の指揮で。中国原作なので、登場人物名も中国語風です。
ベルリンは、次第にナチスの勢力が強まり、ウィーンへの移住を決めます。しかしウィーンもツェムリンスキーにとって永住の地とはなりませんでした。ナチスがオーストリアを併合。それを機にアメリカへ亡命します。この頃作曲を始めていたアンドレ・ジッド(1869-1951)原作のオペラ「カンダウレス王」は、アメリカへ持ち越されます。英語もできず不遇だったうえ、「カンダウレス王」をメトロポリタン歌劇場で上演しようとするも、ヌードシーンが問題視され、作曲する意欲がうせてしまいます。結局未完のまま残されますが、アントニー・ボーモントの手で完成され、現在は上演も増えています。脳卒中に悩まされ、1942年3月15日、ヨーロッパの地を見ることなく肺炎で亡くなります。彼の遺灰は、1985年にウィーンの中央墓地に埋葬されました。斬新なその墓は、目を引きます。
「カンダウレス王」
CD6
こちらもアルブレヒト。
ツェムリンスキーの墓
ツェムリンスキーの墓

ツェムリンスキーのオペラ

フィレンツェの悲劇

たった三人の登場人物のオペラながら、その衝撃度はなかなかなものです。
あらすじ
フィレンツェ商人シモーネは、うまくいかなかった行商から帰ると、家には妻ビアンカの他にフィレンツェの公子グイード・バルディがいるのに気付く。シモーネは、グイードがなぜ家にいるのかを瞬時に悟るが、そんなことは少しも出さずに、グイードには慇懃に、ビアンカには高飛車にふるまう。シモーネは売れ残った高価な衣装をグイードに売りつける。法外な値段で引き取るというグイードに、「この家のものは何でも差し上げましょう」と言うシモーネ。それに対しグイードは、ビアンカを所望するが、あなたには釣り合わないと取り合わないシモーネ。せっかく三人で始めた宴だが、シモーネはその場にいたくないと庭に出る。グイードとビアンカは、そのすきに愛を語り、明日の約束を取り付ける。シモーネが戻ってくると、グイードは帰宅を告げる。シモーネはグイードに決闘を挑む。ビアンカはグイードに、シモーネを殺すようたきつける。剣を取り落としたグイードに、シモーネは短剣で続きをするよう挑む。哀れグイードは短剣での勝負にも負け、最後は首を絞められてこと切れる。さあ次はお前の番だと、シモーネがビアンカに顔を向ける。その時ビアンカは「あなたがこんなに強いと、なぜ言ってくれなかったの?」と恍惚な表情をして告げる。シモーネも「そんなに美しいとなぜ言ってくれなかったのだ」と彼女に向かい両手を差し伸べる。二人は抱き合って幕となる。

参考CD

参考CD(1)
指揮:ゲルト・アルブレヒト
ビアンカ:ドリス・ゾッフェル
グイード・バルディ:ケネス・リーゲル
シモーネ:ギレルモ・サラビア (1983年録音)
アルブレヒトはドイツの指揮者で、1998年から2007年まで読売日本交響楽団常任指揮者を務めました。先生もアルブレヒトの指揮で、いくつものオペラを聴きました。低めのゾッフェルのビアンカは、妖艶な響きを醸し出しています。
参考CD(1)
参考CD(2)
指揮:リッカルド・シャイー
ビアンカ:イリス・フェルミリオン
グイード・バルディ:ハインツ・クルーゼ
シモーネ:アルベルト・ドーメン (1996年録音)
シャイーもツェムリンスキーを得意としていて、「人魚姫」「抒情交響曲」「変ロ長調の交響曲」などの優れた録音を遺しています。このCDは、日本語の対訳のついた唯一のもの。その心意気は買うのですが、CDの配役表が間違っているのはご愛敬。それだけ、日本ではツェムリンスキーのオペラが浸透していなかったということです。クルーゼとフェルミリオンの歌唱が素晴らしく、愛を語る二人にはもってこい。余白に弟子であったアルマの歌曲集が収められているのも嬉しいところです。
参考CD(2)
参考CD(3)
指揮:ベルトラン・ド・ビリー
ビアンカ:ハイディ・ブルンナー
グイード・バルディ:チャールズ・レイド
シモーネ:ヴォルフガング・コッホ   (2010年録音)
コッホ性格的な役柄を上手く演じる歌手です。グイードをもてなす場面の上手いこと。この会場で聴いている人はとても幸せだと思いました。ウィーンのオーケストラなのでこの手のオペラはお手の物。フルボディのワインのような、芳醇な音楽をお楽しみください。
参考CD(3)
名古屋フィルのプログラム。審査委員長の木村俊光氏のシモーネが、何とも迫力があり、最後の一言がとても印象に残っています。
プログラム