~今月の作曲家~「ヒンデミット」(2023年11月)

【ふじやまのぼる先生の作曲家紹介(23)】

ヒンデミット

パウル・ヒンデミット(Paul Hindemith)は1895年11月16日ドイツのハーナウで生まれた、ドイツの作曲家、ヴィオラ奏者、指揮者です。父ルドルフ(1870-1915)は、画家を称していますがいわゆる労働者階級で、音楽の素養はあったにもかかわらず追い切れなかった自分の夢を子どもたちに託しました。
Paul Hindemith 1923
See page for author, CC BY-SA 3.0,
via Wikimedia Commons

パウル・ヒンデミット
(1895-1963)
1898年生まれの妹アントーニエ(トーニー)、1900年生まれの弟ルドルフとともに、幼い時から音楽の教育を始めます。ヒンデミットは、9歳からヴァイオリンを学び、1908年からは、フランクフルトのホッホ音楽院でヴァイオリンを学びます。また同時に作曲や対位法も学んでいます。父は、三人の子どもたちを「フランクフルトの子どもトリオ」の名で演奏させました。オーケストラでのヴァイオリン経験から、1913年にフランクフルトのノイエ劇場、1915年からはフランクフルト歌劇場でコンサートマスターを務めます。
ドイツを戦禍が襲います。1915年、第一次世界大戦で父ルドルフ戦死してしまいます。彼自身も1918年に歩兵連隊の軍楽奏者として招集、恐怖体験を味わった後、その年のうちに除隊となっています。
戦後ヒンデミットはヴィオラをよく演奏するようになり、ハンガリー出身のヴァイオリニストのリッコ・アマール(1891-1959)の名前を冠したアマール四重奏団の一員となりました。チェロは弟のルドルフ(1900-1974)が担当しました。ヒンデミットの兄弟の中で最初に頭角を現したのは、このルドルフでしたが、この頃になるとヒンデミットの方に注目が集まり、どうしても兄の陰に隠れてしまいがちでした。ルドルフは、兄とは違うジャンルでの作曲家や指揮者として活動しますが、後世は同じ「ヒンデミット」姓を避け、様々なペンネームを使いました。墓石にも「ハンス・ローファー」というペンネームが刻まれたと言います。
戦後は、作曲活動も旺盛に行うようになります。アマール四重奏団で初演した弦楽四重奏曲作品16は、評判を呼びました。また、最初のオペラが完成されたのもこの頃でした。1921年6月4日、シュトゥットガルトで「殺人者、女たちの希望」「ヌシュ・ヌシ」という2つの1幕物のオペラが、フリッツ・ブッシュ(1890-1951)の指揮で同日初演され、好評を博しました。翌年には同じく1幕物のオペラ「聖スザンナ」がフランクフルトで初演されています。この3つのオペラ、実は日本でも上演があるのです。指揮者の大野和士さんが東京フィルハーモニー交響楽団で、1995年10月に「東フィル・オペラ・コンチェルタンテ・シリーズ」第11回公演として、一挙に取り上げています。これを見逃した先生は、大いに落胆した覚えがあります。
CD1
CD2
CD3
1924年、フランクフルト歌劇場管弦楽団の楽長の娘のゲルトルート・ロッテンベルク(1900–1967)と結婚します。1926年には、E.T.A.ホフマン(1776-1822)の「ゼラピオン同人集」の中に含まれる「スキュデリ嬢」を原作とするオペラ「カルディヤック」がドレスデンで初演されます。複数幕のオペラはこれが初めてでした。心理描写がとても巧みに描かれており、映画のように次々と展開していく感があります。後年改作されましたが、現在はオリジナルの上演が多いようです。
CD4
このオペラは、2013年にヒンデミット没後50年を記念し、新国立劇場オペラ研修所の公演で日本初演されています。こちらもオリジナルの版で上演されました。この時指揮されたのが、オペラコンクールの本選指揮をお願いしている髙橋直史先生でした。髙橋先生は、当時ドイツのオペラハウスの音楽総監督を務められていました。すばらしいオペラの指揮者がドイツにいるんだなあと思って聴きました。演出は、三浦安浩先生でした。
DVD1
このDVDは、いくつかある「カルディヤック」の映像の1つです。第7回コンクールで審査委員を務めていただいた、マリア・デ=フランチェスカ=カヴァッツァ先生が出演されています。カヴァッツァ先生曰く、この公演は、ミュンヘンで行った後、ミラノでも上演されたそうで、思い出深い演奏の1つとのことでした。
DVD2

 
1927年には、ベルリン音楽大学の作曲家教授に任命されたのに伴い、ベルリンに転居しました。実験的な創作も旺盛となり、機械オルガンのための作品やトラウトニウム(電子楽器の一種)のための作品、ラジオのための作品など枚挙にいとまがありません。この年初演された「行きと帰り」というオペラも、実験的。15分に満たないこの作品は、妻の浮気を知った夫が妻を撃ち殺す。その死体が運び去られた後、夫は身を投げる。そこに賢者が現れ、時間を戻し、音楽も歌詞も逆行し始め、最初に戻って幕となるというもの。なんとも実験的です。国内でも何回か上演されています。
CD5
ベルリンに移ったヒンデミットは、ツェムリンスキーのところでもお話ししたクロル歌劇場のためにオペラを作曲します。それが「今日のニュース」というもの。おとぎ話でもなく、英雄譚でもなく、神々の話でもない、今、日常に起きている「時事オペラ」というジャンルのそのオペラは、かなりの評判をとります。なにせ、夫婦間の離婚を巡る騒動が内容ですからね。そのオペラを観劇に訪れたのが、かのアドルフ・ヒトラー(1889-1945)。彼は、ワーグナーを信奉していたので、くだらない内容と途中に出てくる風呂場のシーンにおかんむり。ナチスに目の敵にされるようになります。ただでさえ実験的な音楽語法に加え、ユダヤ人の奏者と平然と演奏活動を行うことにいら立っていました。ヒンデミットはユダヤ人ではありませんでしたが、妻のゲルトルートはユダヤ系でした。
CD6

 
先生は、名前だけは聞いている「今日のニュース」というオペラをどうしても観たくて探していたところ、1996年にケルンの歌劇場で上演があるというのを見つけ、この年の暮に、ヨーロッパへ出かけました。この冬は大寒波が襲い、東ヨーロッパでは凍死者が出たというニュースを聞き、マイナス10度の世界に震えた記憶があります。ケルンの歌劇場は、ウィーンの国立歌劇場とは違い、モダンなつくりです。演出もなかなか凝ったもので、例の風呂場の場面も面白く演出されていました。今でこそ、普通に上演されそうな場面です。音楽だけ聴いても超一流ですが、やはり舞台があった方が面白いですね。日本では絶対に観ることのできないオペラです。ヨーロッパでもそうそうあるものではないような気がします。良い経験をしました。
CD7


 
1900年から1945年にかけてのベルリンの歌劇場事情は、この本に詳しく書かれています。
書籍1
1923年ザルツブルクで開催された国際現代音楽祭で、ヒンデミットはイギリスの作曲家ウィリアム・ウォルトン(1902-1983)と知り合います。ウォルトンはその後、ある人の勧めにより、イギリスのあるヴィオラ奏者が演奏するのを念頭に、ヴィオラ協奏曲を作曲し、その奏者に楽譜を送ります。しかし、そのヴィオラ奏者は、自分の知らないところで作曲された曲であり、まだ駆け出しの作曲家による作品だったため、彼はその楽譜をウォルトンに「演奏不能」として送り返してしまいます。途方に暮れたウォルトンは、友人の勧めもあり、このヴィオラ協奏曲の楽譜をヒンデミットに見せ、初演を依頼します。ヒンデミットは快くそれを受け、その初演は大成功を収めたと言います。1963年、ウォルトンはヒンデミットのチェロ協奏曲を主題に持つ「ヒンデミットの主題による変奏曲」を作曲します。ヒンデミットはそれを聴き、自分で演奏するのを楽しみにしていましたが、急逝してしまったので、それは果たせませんでした。
CD8
CD9
1933年から書き始められた交響曲「画家マティス」。これは、オペラ「画家マティス」として作曲されるものの一部を交響曲に仕立てたものでした。マティスは、皆さんの良く知るアンリ・マティス(1869-1954)ではなくて、16世紀に活躍したドイツの画家、マティアス・グリューネヴァルト(1470頃-1528)のことです。画壇では「グリューネヴァルト」と呼ばれることが多いようです。交響曲「画家マティス」は、1934年3月12日、20世紀最高の指揮者ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(1886-1954)の指揮、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏で初演され、熱狂的な成功を収めました。3つの楽章から構成され、第1楽章「天使の合奏」は、オペラの前奏曲、第2楽章「埋葬」は、オペラの第7場、最終場面への間奏曲、第3楽章「聖アントニウスの誘惑」は、オペラの第6場から採られています。3つの楽章の副題は、グリューネヴァルトの絵画から採られ、それぞれの絵画は現存します。しかし、このコンサートはドイツの楽壇を震撼させる大事件となるのです。
それは現在「ヒンデミット事件」と呼ばれています。交響曲の大成功を受け、ベルリン国立歌劇場では、オペラ「画家マティス」の初演の準備がされていました。しかし、ナチスの御用新聞に「ヒンデミットは堕落の旗手」といった排斥記事が掲載され、オペラの初演は中止との圧力がかかります。それに怒ったのはフルトヴェングラー。「ドイツ一般新聞」に記事を投稿し、「ヒンデミットを失うことは、ドイツの音楽の将来を失うことだ」と断じました。楽壇はこれに呼応し、フルトヴェングラー支持を表明します。しかしナチスは、断固たる態度を取り、フルトヴェングラーはベルリン・フィルとベルリン国立歌劇場の監督を辞めさせられます。ヒンデミットは音楽大学を休職し、1935年に招聘されてトルコへと向かいます。
トルコでは、アンカラに新しく音楽学校を設置するのに尽力し、トルコ国立オペラ・バレエ劇場設立にも初期の段階に関わりました。現在のトルコの音楽教育は、ヒンデミットなしでは語ることができません。
1936年には、ドイツ国内でヒンデミットの音楽を演奏することが禁じられます。身の危険を感じたヒンデミットは、ドイツには帰国せず、1938年にスイスに亡命します。初演が禁止されてしまったオペラ「画家マティス」の初演が、チューリヒでようやく実現しました。1940年にはアメリカに渡ります。イェール大学の音楽理論の教授として迎えられ、アメリカ芸術科学アカデミーの会員にも選出されます。この頃から指揮活動も行うようになります。アメリカでも旺盛な作曲活動が行われ、「ウィーバーの主題による交響的変容」もこの頃作曲されました。
戦後、アメリカの市民権を得ますが、ヨーロッパへの気持ちを抑えがたく、1951年からはチューリヒの大学で音楽学の講義を行い、アメリカとの往復が続きます。1953年には完全にヨーロッパに帰還、スイスのレマン湖畔ヴヴェイ郊外に居を構えます。1953年には、戦後再開されたバイロイト音楽祭で、ベートーヴェンの交響曲第9番を指揮しました。また、1954年には古楽器のオーケストラを編成し、モンテヴェルディの「オルフェオ」を演奏したことも大きな出来事の1つでしょう。ウィーン音楽院でも教鞭をとり、1956年には、第1回ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の日本公演に指揮者として帯同。自作を含む多くの作品を、今では考えられないほど多くの都市で公演を行いました。
戦前からヒンデミットは、天文学者ヨハネス・ケプラー(1571-1630)を主人公としたオペラを作曲したいと考えていました。しかし戦禍や亡命などにより、なかなか実現しませんでした。彼は、「画家マティス」の時と同じように、まずはオペラの中から3つの部分を取り出して交響曲を作ります。これはパウル・ザッハー(1906-1999)とバーゼル室内管弦楽団により1952年1月25日に初演されました。第1楽章は楽器の音楽、第2楽章は人間の音楽、第3楽章は世界の音楽という副題がついています。ヒンデミットと同様、戦禍を掻い潜ったフルトヴェングラーもいち早くレパートリーに加えています。オペラはなかなか完成できず、交響曲の初演から5年後の1957年8月11日に、ミュンヘンでヒンデミット自身の指揮で初演されました。
CD10
ある家の、クリスマス・ディナーの様子を描いた「ロング・クリスマス・ディナー」(1961年初演)が作曲されています。アメリカの劇作家ソーントン・ワイルダー(1897-1975)原作の同名の作品に作曲され、英語版とドイツ語版が存在します。舞台はバイヤード家のダイニングルーム。50分ほどのオペラですが、オペラが進むにつれて、90年ほどの時が流れ、世代が変わっていく不思議なオペラです。このオペラも日本語に訳されての上演が見られます。
CD11
ヒンデミットは、オーケストラに出てくるような楽器は一通り演奏できたと言います。そのため、様々な楽器を独奏とするソナタや協奏曲を書き残しています。ヘッケルフォーンや、前に述べたトラウトニウムといった新しいものもあれば、ヴィオラ・ダモーレという忘れられた知る人ぞ知る楽器も含まれています。ヘッケルフォーンは、ヴィルヘルム・ヘッケル(1856-1909)によって開発された楽器で、オーボエよりも1オクターヴ低い音が出る楽器です。ヴィオラ・ダモーレは「愛のヴィオラ」という意味で、ヴィオラと違うのは、弦が6本から7本あり、その他に「共鳴弦」と呼ばれる直接弾かれることのない、特定の音に共鳴して響きを豊かにし、残響を持たせる弦が張られていることです。ここでそのすべてをご紹介するわけにはいきませんが、比較的聴きやすいのは、「室内音楽」と呼ばれる協奏曲集がおすすめです。
今回は、浜松市にある浜松市楽器博物館の御協力でヘッケルフォーンとヴィオラ・ダモーレの画像を紹介いたします。
ヘッケルフォーン
ヘッケルフォーン
ヴィオラ・ダモーレ
ヴィオラ・ダモーレ
CD12
下のCDは、ヒンデミットの自作自演です。ヴィオラとピアノの演奏が収められています。1930年代後半の録音なので、音質は望むべくもありませんが、その腕前を聴くには充分な、貴重な録音です。
CD13
ヒンデミットの指揮は、超一流というわけではありませんでしたが、自作をどのように解釈するかという点においては非常に興味深い指揮者と言えます。1950年代にベルリン・フィルにまとまった録音を遺しています。ファーストチョイスとしてはお勧めしませんが、興味のある方はぜひ。ヒンデミットが交響曲「画家マティス」について語る肉声を聴くこともできます。
CD14
下記の一覧は、1963年から64年のシーズンにおける、ウィーン・フィルの公演リストです。綺羅星のごとき指揮者によるコンサートが目白押しですね。1964年6月はR.シュトラウス生誕100年に当たるため、8番目と9番目のコンサートは、R.シュトラウスづくしです。
一覧
3番目のコンサートとして、ヒンデミットが自作のオルガン協奏曲やケルビーニ、レーガーを指揮するコンサートが11月にありました。この時は何の異常もなかったのですが、スイスの自宅に帰った後体調を崩してしまいます。フランクフルトの病院での検診を希望し移動しましたが、12月28日に出血性膵炎のため亡くなりました。
4番目のロリン・マゼール(1930-1914)の指揮するコンサートでは、ヒンデミット追悼の意味を込め、本来の曲目の前に、交響曲「画家マティス」から、第2楽章「埋葬」が演奏されました。
書籍2
また、ヒンデミット追悼文が掲載されています。ここには、ウィーン・フィルの日本ツアーの事にも触れられています。署名の「O.S.」とは、ウィーン・フィルのヴァイオリン奏者で、当時ウィーン・フィルの理事を務めていたオットー・シュトラッサー(1901-1996)の事でしょう。
書籍3
ヒンデミットのオペラ一覧
Hindemithのオペラ一覧

ヒンデミットのオペラ

画家マティス

なかなか日本では上演されませんね。交響曲だけではつまらないので、ぜひ全曲を聴いてみてください。
主な登場人物
登場人物一覧
あらすじ
前奏曲「天使の合奏」
第1場 聖アントニウス修道院の中庭 5月の終わりの昼頃
マティスが物思いにふけっているところに、反乱指導者のシュヴァルプとその娘のレギーナがやって来る。マティスは追っ手から救うため、馬を貸し逃がす。彼らを捕まえるためにやって来た正規軍の士官ジルヴェスターに、マティスは逃がした事実を告げるが、マティスが枢機卿お気に入りの画家であることを知り、「このことは枢機卿に報告する」ときつく言い渡す。マティスは三日以内に枢機卿のもとへ出向くという。
第2場 マインツのアルブレヒト枢機卿の館の大広間
カトリックルター派学生の三者が議論を戦わせている。そこへ、アルブレヒト枢機卿がマインツの守護聖人である聖マルティンの聖遺物を持ってローマから帰還し、皆を祝福する。そしてルター派の商人リーディンガー焚書撤回を約束する。焚書撤回にリーディンガーはマティスへの経済的援助を約束する。マティスはリーディンガーの娘のウルスラとの再会を喜ぶ。
リーディンガー父娘が去ると、ローマからの命令故、焚書はやむを得ないとの意見が大勢を占めるので、仕方なく枢機卿は焚書指令の書類にサインする。ジルヴェスターが現れ、マティスがシュヴァルプたちを逃がしたことを枢機卿に報告。枢機卿は、マティスの画家としての職を解く
第3場 マインツのマルクト広場のリーディンガーの家
焚書の準備がされ、リーディンガーの家にあるルター派の重要書籍は全て運び出されてしまう。ルター派たちは憤慨するが、その中の書類に、聖職者の妻帯について書かれたものがある。まず枢機卿に金持ちの家の娘を結婚させたらという話になる。リーディンガーはウルスラに信仰に身を捧げる決意があるか考えろと言い、皆は家を出る。ウルスラのもとにマティスがやって来る。ウルスラは、以前からマティスに恋心を抱いており、マティスも同じ気持ちだが歳が離れてい過ぎると告げる。家の外からは、焚書に対する人々の声が聞こえる。マティスはウルスラをぎゅっと抱きしめから、出ていく。ウルスラは戻って来た父親に、自分の決意を語り、結婚の計画に同意する。
第4場 破壊されたケーニヒスホーフェン 6月の午後
農民たちは、領主の伯爵を捕え、処刑しようとしている、伯爵夫人は命乞いするが、伯爵は殺される。次に農民たちは伯爵夫人に襲い掛かるが、マティスに止められる。しかしマティスも農民たちに殴られる。シュヴァルプがレギーナとともに現れ、農民たちを一喝する。正規軍が到着し、農民たちは戦うが大半は死に、残りは逃げ去る。シュヴァルプも銃弾に倒れ死ぬ。ジルヴェスターはマティスを見つけ、逮捕するよう命じるが、公爵夫人のとりなしでそれを免れる。マティスは、レギーナとともに逃げる。
第5場 マインツのアルブレヒト枢機卿の書斎
枢機卿は、自分の知らないところで結婚話が進んでいることに怒るが、相手に会うことは同意する。入ってきたウルスラを見て驚き、愛を捨て信仰のために来たのかと問う。ウルスラは、本当の信仰を示す時が来たと告げる。枢機卿は人々を呼び、自分の信仰に忠実に従うと告げ、所有物を売り、清貧の隠者となり、本当の意味での信仰の道に入ると告げる。
第6場 オーデンヴァルトの森
逃亡するマティスとレギーナ。レギーナは父親の幻影に怯えている。マティスはレギーナを寝かしつける。突然舞台は聖アントニウスの誘惑の場面となる。マティスは聖アントニウスの姿となり、これまで登場した人物により、様々な欲望で誘惑される。ついにマティスは、キリストに救いを求める。すると場面はイーセンハイムの祭壇画となり、聖アントニウスが聖パウロを訪れる場面になる。聖アントニウス(マティス)は、「今まで正しい行いをしてきたのになぜこう苦しむのか」と問うと、聖パウロ(枢機卿)は、「迷うな、再び絵筆を取れ」と告げる。場面はマインツのライン川河畔の朝となる(この部分が交響曲の第3楽章に現れます)。
第7場 マインツにあるマティスのアトリエ
マティスは根を詰めた仕事に疲れ切っている。瀕死のレギーナはベッドに横になり、ウルスラが見守っている。マティスの描いている十字架上のキリストが自分の父親に似ているとつぶやく。マティスとウルスラが見守る中、レギーナは息を引き取る
間奏曲(交響曲の第2楽章に当たります)
朝。枢機卿は、家を提供したいとマティスを訪問する。しかし、マティスはそれを断り、最後の瞬間を独りで過ごすと告げる。そして画具やその他の荷物をまとめ、そこを立ち去る。

参考CD

参考CD(1)
指揮:ゲルト・アルブレヒト
マティス:ローラント・ヘルマン
アルブレヒト枢機卿:ヨーゼフ・プロチュカ
ウルスラ:ザビーネ・ハス 他 (1990年録音)
この録音より前に、ラファエル・クーベリック(1914-1996)指揮の優れたCDもあるのですが、カットが多いので、まずこちらを上げます。ゲルト・アルブレヒト(1935-2014)は、読売日本交響楽団の指揮者も務め、知られざる作曲家や作品を取り上げた指揮者です。この大作を手堅くまとめるだけではなく、録音後何十年と聴き続けるに堪えうる録音として世に出してくれたことにまず感謝しなければなりません。歌手も過不足なく、スタジオ録音であるため、傷も少ないので、初めて聴く方にもおすすめです。
参考CD(1)
参考CD(2)
指揮:シモーネ・ヤング
マティス:ファルク・シュトルックマン
アルブレヒト枢機卿:スコット・マカリスター
ウルスラ:スーザン・アンソニー 他 (2005年録音)
実はこの録音が行われた日、先生はハンブルクにいたのです。この日がプレミエだったので、チケットは入手できず、泣く泣くホテルにいたことを思い出します。当時ハンブルク州立歌劇場の音楽監督だった、オーストラリア出身のシモーネ・ヤングの指揮で、劇場で聴いてみたかった気もします。録音は、ライヴにもかかわらず上質で、ヴォータンなどでおなじみのファルク・シュトルックマンのマティスも、歌い方に少し癖がありますが素晴らしいです。
参考CD(2)
参考CD(3)
指揮:ベルトラン・ド・ビリー
マティス:ヴォルフガング・コッホ
アルブレヒト枢機卿:カート・ストレイト
ウルスラ:マヌエラ・ウール 他 (2012年録音)
近年、オペラの新譜は、ほとんどがライヴ録音で、スタジオ録音は望むべくもありませんが、熱気があって先生は好きです。これも、ウィーン第3のオペラ劇場として最近特に話題豊富な、アン・デア・ウィーン劇場でのライヴ録音です。ベルトラン・ド・ビリーはフランス生まれの指揮者ですが、幅広いレパートリーを持ち、オペラ指揮にも定評があります。この録音と合わせて、映像収録もされたようですが、掲載されている画像を見ると、映像を見たくなくなるような気がしなくもありません。先生は、純粋に音楽だけを聴きたいので、CDで十分です。ヴォルフガング・コッホのマティスも素晴らしく、3つのCD甲乙つけがたいです。
参考CD(3)