~今月の作曲家~「ヴァインベルク」(2023年12月)

【ふじやまのぼる先生の作曲家紹介(24)】

ヴァインベルク

ヴァインベルクという作曲家を知っていますか?先生は、最近までその存在を知りませんでした。ドミトリー・ショスタコーヴィチ(1905-1975)の交響曲第10番を、二人でピアノ録音したCDを持っていますが、その人が誰なのか調べたことはありませんでした。その存在を知ったのは、2010年7月、オーストリアのブレゲンツ音楽祭で収録されたオペラ「パサジェルカ」をBS放送で観たときです。その衝撃はすさまじく、それ以降彼の作品や生い立ちを調べるに至りました。では、その生い立ちを紐解いてみましょう。
ヴァインベルクは、1919年12月8日、ポーランドのワルシャワに、ミェチスワフ・ヴァインベルク (Mieczysław Wajnberg) としてユダヤ人家庭に生まれました。お父さんのシュミイル(1882-1943)は、現在のモルドヴァの首都キシナウで生まれ、独学でヴァイオリンを習得します。印刷業なども経験しますが、最終的には各地の劇場で、ヴァイオリニスト、指揮者、その他雑用係として活躍します。キシナウは、1903年にユダヤ人排斥のための大虐殺が起こり、そこで、シュミイルのお父さんやおじいさんは殺害されています。シュミイルは、1916年頃ワルシャワの劇場に移り、そこでヴァインベルクが生まれます。お母さんのソニア(1888-1943)は女優で、シュミイルのいた劇場に所属していました。
お父さんの音楽的才能を受け継いだのか、ヴァインベルクは幼いころからピアノを弾き、シュミイルの劇場で楽団に交じって演奏したこともあったようです。12歳になるとワルシャワ音楽院で学ぶようになり、「パデレフスキ版」として知られる「ショパン作品全集」の校訂を行ったユゼフ・トゥルチンスキ(1884-1953)にピアノを師事し、1939年に卒業します。シュミイルは、自慢の息子とともに音楽活動をしたり、SPレコードに自作を録音したりしています。ヴァインベルクの「op.1」である「ピアノのための子守歌」と、「op.2」である「弦楽四重奏曲第1番」は、この頃作曲されています。
しかし、この幸せな時間も長続きしませんでした。ナチスがポーランドに攻め込んできたのです。当然、ユダヤ人であるヴァインベルクたちが標的になるのは言うまでもありません。家族はバラバラになり、ヴァインベルクは、現在のベラルーシのミンスクに逃れます。しかし両親と妹のエステル(1922-1943)は、トラヴニキ強制収容所に送られ、そこで命を落とします。三人の没年が同じなのは、そのためです。
ミンスクでは、ワシリー・ゾロタレフ(1872-1964)に作曲を師事します。その後1941年にナチスがソ連に侵攻してくると、現在のウズベキスタンの首都タシュケントに移り住み、歌劇場で職を得ます。1942年、俳優ソロモン・ミホエルス(1890-1948)の娘のナタリア・ヴォフシと結婚しました。当地では、ショスタコーヴィチとの出会いがありました。ソ連では名前をモイセイ・サムイロヴィチと改めます。苗字の綴りもいろいろ見られ、発売されているCDでは、「Weinberg」という表記が多いようです。
ヴァインベルクの才能を高く評価したショスタコーヴィチは、ヴァインベルクをモスクワに招きます。1943年、ヴァインベルクはモスクワに移住しました。戦禍もありましたが、ショスタコーヴィチとの出会い以降、充実した作曲家生活を送っていました。二人は近くに住んでいて、頻繁に行き来し、創作のアイディアを共有したり互いの作品を演奏したりしていました。ヴァインベルクはこの頃、交響曲、協奏曲、弦楽四重奏曲など多岐にわたる作品を手掛けています。
しかし1948年、思いもよらぬことが起こります。この年の1月、岳父ミホエルスが事故死します。殺害が疑われ、その容疑者としてヴァインベルクは当局から目を付けられるようになります。また2月には、「ジダーノフ批判」と呼ばれる文化、芸術に対するイデオロギーの統制に引っ掛かり、彼の作品は演奏禁止処分となってしまいます。その対象は、ショスタコーヴィチプロコフィエフなど多くの作曲家に及びました。その結果ヴァインベルクは、細々とした生活を余儀なくされます。さらに1953年2月には、岳父殺しと、「ユダヤ人ブルジョア民族主義」の容疑で逮捕されてしまうのです。ショスタコーヴィチは、彼を救うべくあらゆる手を尽くします。あわやというところで、ヨシフ・スターリン(1878-1953)が亡くなり、釈放されました。実はミホエルスは、イスラエル建国に伴う政治的陰謀に巻き込まれ、結果としてスターリンに事故死を装って粛清されたのでした。
名誉回復したその後には、様々な作品を世に送ります。1967年から68年にかけて、「パサジェルカ」と題された初のオペラが作曲されます。「パサジェルカ」とは、女性の旅行者という意味で、ナチスの影が色濃く反映されたオペラです。1970年には「マドンナと兵士」、1971年には「三銃士」に着想を得た「ダルヤニャンの愛」というオペラも書かれました。これら三つのオペラをショスタコーヴィチは、「ヴァインベルクはオペラ形式の成熟した巨匠であることを示した」と述べたと言います。その後「おめでとう!(作曲:1975)」「レディ・マグネシア(1975)」肖像画(1980)」「白痴(1985)」というオペラを手掛けています。
彼の交響曲は番号付きだけで21曲、また弦楽四重奏曲17曲手掛けています。この辺りは、ショスタコーヴィチと似たような傾向が見られます。さらに多くの室内楽を手掛けているのが特徴的です。今日コンサートで聴く場面は滅多にありませんが、感銘を受ける作品は多くあります。もう少し知られるようになると先生も嬉しいです。
晩年はクローン病を発症し、闘病生活が長かったと言います。そして、1996年2月26日に亡くなりました。

作品紹介

近年、再評価が進んでおり、ヴァイオリニストのギドン・クレーメルが多くの作品を取り上げており、各分野のCD出版も増えています。オペラはまだ3作品が音源として聴けるのみですが、そのうち全容が明らかになると思います。いくつかおすすめをご紹介いたします。
ピアノ五重奏曲は、戦時中の1944年に作曲されました。1940年に作曲されたショスタコーヴィチのピアノ五重奏を意識したのか、両作品とも五楽章からなっています。同じような雰囲気を醸し出す曲ですが、ヴァインベルクの方が、最後までより深刻な印象を受けます。最後、暗い雲の間から一条の光が差し込むような終わり方が印象的です。
CD1
チェロ協奏曲は、1948年にムスティスラフ・ロストロポーヴィチ(1927-2007)のために作曲されました。しかし、「ジダーノフ批判」のため初演は延期。スターリンの死後いくつかの改訂を経て、1957年に初演されています。ロストロポーヴィチの録音と、近年ヴァインベルクの作品を集中的に録音、紹介しているスヴェトルンドの指揮の録音を。
CD2
CD3
交響曲第12番は、「ショスタコーヴィチの思い出に」という副題が付けられています。ヴァインベルクは、交響曲にあまり大きな編成を使ってきませんでしたが、この交響曲はショスタコーヴィチが作曲したと言っても過言でないような規模感を誇っています。ショスタコーヴィチの「交響曲第1番」の雰囲気や、オペラ「ムチェンスクのマクベス夫人」からの引用が見られます。最後「レ」の音と「ミのフラット」の音をハープによって奏でられているのは、「レ=D」、「ミ=Es=S」つまり、ドミトリー・ショスタコーヴィチのイニシャルを奏でているのです。初演は、ショスタコーヴィチの息子マクシムが務めました。最初の録音も彼によっています。
CD4
「レクイエム」とは、モーツァルトやヴェルディに見られるように、決まった歌詞(典礼文)があってそれに作曲されるのが通常ですが、ベンジャミン・ブリテン(1913-1976)の「戦争レクイエム」のように、典礼文とその他の歌詞の両方を用いているものもあります。ヴァインベルクのレクイエムは、典礼文を使わず六人の詩人による歌詞を用いています。4番目の詩は、深川宗俊(1921-2008)の詩(五行のスタンザとありますから、短歌でしょうか)に作曲されています。この部分だけで全体の三分の一。深川は広島で被爆し、その体験を多くの歌に詠んでいます。
CD5
完成された最後の交響曲である第21番。「カディッシュ」という副題が付けられています。カディッシュとは、「聖なるもの」という意味で、ユダヤ人には重要な意味を持つ言葉です。レナード・バーンスタイン(1918-1990)も、彼の交響曲第3番に「カディッシュ」という副題を付けているので、ご存知の方も多いでしょう。ヴァインベルクはこの交響曲を「ワルシャワのゲットーで殺害された犠牲者の記憶」に捧げています。
CD6

ヴァインベルクのオペラ

パサジェルカ

1967年から68年にかけて作曲され、ボリショイ劇場での初演も決まっていながら、2006年に行われたモスクワでの演奏会形式による初演まで待たなければならなかった作品です。
主な登場人物
あらすじ
第1幕第1場 1959/60年 船上
ヴァルターと妻のアンナ・リサ・クレッチマー(旧姓フランツ)は、ヴァルターが外交官として赴任するブラジルで新しい生活を送るため船に乗っている。旅の途中、リサは、ある乗客の存在が気になる。その見知らぬ乗客は、アウシュヴィッツの元囚人で彼女の命令下にあり、すでに亡くなったと思っていたマルタによく似ていた。ショックを受けた彼女は、これまで明かされていなかった戦時中の過去を夫に打ち明ける。
第1幕第2場 アウシュヴィッツでの訴え
リサと彼女の上司の監督官は、囚人を操る必要性について話し合い、各グループの中から他の囚人を簡単に導くことができる腹心の部下を見つける必要がある。リサは、マルタを自分の部下にすることを決める。
第1幕第3場 囚舎
収容所の女性たちが紹介され、それぞれが生い立ちや出自を語る。殴られ、拷問されたロシア人女性が連れてこられ、担当のカポ(囚人の中から選ばれた囚人監視役)は、彼女の命を奪うかもしれないメモを発見する。マルタはリサに翻訳を依頼されるが、そのままは訳さず、ラブレターにとして読み上げる。リサはそれを信じる。場面が船上に戻り、リサとヴァルターは、リサの暴かれた過去と折り合いをつけようとしているのが見られる。
第2幕第1場
殺害された囚人の所持品を、女性たちが整理している。司令官は、好きなワルツを演奏させるため、所持品の中からヴァイオリンを持ってくるよう命じる。囚人のタデウシュがヴァイオリンを取りに来ると、そこで婚約者のマルタを発見する。彼らの再会はリサによって監督され、リサは彼らの関係を操作して、彼女が自分の目的のためにマルタをより簡単に制御できるようにし、すべての女性囚人に対する支配を拡大することを決意する。
イラスト1
第2幕第2場 作業場
タデウシュは、将校の私的な要求のために宝飾品を作っている。スケッチの中に、リサはマルタの顔を見つける。リサはタデウシュにも自分の言いなりにさせようとするが、そうすればリサに恩義を感じることになると判断し、命を落とすことになることを承知で断る。
第2幕第3場 獄舎
その日はマルタの誕生日で、彼女は死についての長いアリアを歌う。リサはマルタに、タデウシュが彼女の申し出を断ったこと、そしてそれは彼に大切な代償を払うことになると言うが、マルタはタデウシュの立場を理解する。女性囚人たちは、戦争が終わって家に帰ったら何をするかという叶わない歌を歌っている。殺される者が選別され、女性たちは番号が呼ばれ連れて行かれる。その後をマルタは追うが、リサは彼女を止め、死は間近にあるから急ぐ必要はないと彼女をからかう。リサは、マルタが死ぬ前に、タデウシュのコンサートを聴くように言い、これが最後のプレゼントだと言う。
第2幕第4場 船上
リサは、見知らぬ乗客が本当にマルタなのか確信が持てない。彼女がイギリスのパスポートで旅行しているが、ポーランド語の本を読んでいるとの情報を得る。ヴァルターとリサは、サロンでダンスに参加する。見知らぬ乗客は、バンドのリーダーに曲のリクエストをする。何とその曲は、かつて収容所司令官のお気に入りのワルツだった。リサは、マルタが生きていてこの船に乗っていると確信する。
イラスト2
第2幕第5場 アウシュヴィッツでのコンサート
タデウシュは司令官の前で、彼のお気に入りのワルツの音楽を弾くことはせず、バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番のシャコンヌを演奏し、音楽的な抗議をする。その結果タデウシュは、ヴァイオリンを叩き潰され、残酷に殴られながら連行される。リサはその光景を目の当たりにしていた。
エピローグ 河岸
年老いたマルタ。彼女は今の平穏さを語り、亡くなった者たちは、受けた仕打ちを決して忘れないし、決して許すことはないと言っていたと語る。

参考CD

指揮:ローランド・クルティヒ
リサ:ドゥシャミリヤ・カイザー
マルタ:ナージャ・ステファノフ 他 (2021年録音)
ブレゲンツ音楽祭での映像も強烈ですが、先生は音のみをじっくり聴きたいので、このCDをお勧めします。日本語はありませんが、歌詞の内容がわかる詳しい解説も付いています。
参考CD(1)