~今月の作曲家~「ドリーブ」 (2024年2月)

【ふじやまのぼる先生の作曲家紹介(26)】

ドリーブ

クレマン・フィリベール・レオ・ドリーブ(Clément Philibert Léo Delibes)は1836年2月21日にフランスのサンジェルマン・デュ・ヴァルで生まれたフランスの作曲家です。父フィリベールは郵便配達員で、母は才能のあるアマチュア音楽家のエリーザベト・クレマンス・バティスト(1807-1886)でした。母方の祖父は、ナポレオン1世(1769-1821[在位:1804-1814、1815])の皇帝礼拝堂のオート・コントルであったジャン=マティアス・バティスト(1778-1848)で、母の異母弟は、オルガニストのアントワーヌ・エドゥアール・バティスト(1820-1876)でした。
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レオ・ドリーブ(1836-1891)

豆知識「オート・コントル」

オート・コントルはフランス語で「haute-contre」と綴ります。フランスのバロック音楽など、少し古い時代の声部分類で使われます。オートは高い、コントルは、「~に対して」という意味で、他の声部よりも高いことを表します。よく「オート・コントルは、カウンターテナー」との表記を見ますが、ちょっと違うのです。カウンターテナーは、「もののけ姫」のテーマソングでおなじみのように、全て「裏声(頭声)」で歌われますが、オート・コントルは、裏声や胸声(普通の歌声)の区別なく、「男声で最も高い声部」を意味するのです。なので、日本語に訳すと「超高い男声」とでも言いましょうか。
男声のイラスト
1847年、父が亡くなると一家はパリに移住します。そこで母と叔父エドゥアールのもとで暮らします。エドゥアールは、ドリーブに音楽教育を施し、12歳になると、パリ音楽院に進み、音楽理論、ピアノ、オルガン、和声などを学び、作曲はアドルフ・アダン(1803-1856)に学びます。在学中から彼は美声で知られており、パリでもノートル・ダム大聖堂と並び称されるマドレーヌ寺院の聖歌隊員でした。また、1849 年4月16日に、パリ・オペラ座で行われた、ジャコモ・マイアベーア(1791-1864)のオペラ「預言者」初演では、戴冠式の場面で祭壇の少年を演じました。また在学中から、サン・ピエール・ド・シャイヨー教会のオルガニストを務めます。1855年には、テアトル・リリックの伴奏者として採用されています。この劇場では、古典(モーツァルトやベートーヴェン)から新作(グノーの「ファウスト」など)まで、あらゆるオペラの準備に携り、知見を広めるのに大いに役立ちました。当時フランスでは、音楽家としては教会のオルガニストになるか、オペラに関わるか、というのがステイタスだったので、この両方を学生の時から知ったドリーブは、どんな心境だったのでしょうね。いつの時代もそうですが、選択肢がたくさんあるということは、とても幸せなことです。
この頃ドリーブは作曲をし始め、最初期の作品として、当時フォリー・ヌーヴェルという名の劇場で初演されたオペレッタが挙げられます。この劇場はテアトル・デジャゼという名で現在に引き継がれています。また、ジャック・オッフェンバック(1819-1880)の設立したテアトル・ブッフ・パリジャンでも多くのオペレッタを発表しています。ドリーブは、色々な教会のオルガニストを1871年まで続けましたが、自分の音楽的方向性は劇場にあると考えていました。
バレーダンサーのイラスト①
最初のオペラは、1857年にテアトル・リリックで初演された「グリファール氏」でした。1863年には、オペラ座の第2合唱指揮者として就任し、間近でオペラやバレエに触れる機会を得ます。また、バレエを作曲する機会にも恵まれます。こうして少しずつではありますが、着実に世間に認められ始めた彼が生み出し、彼の名を不朽のものにした作品が、バレエ「コッペリア」でした。「コッペリア」は、オッフェンバックのオペラ「ホフマン物語」にも登場する自動人形「オランピア」と同じで、E.T.A.ホフマン(1776-1822)の「砂男」を原作にしています。1870年5月25日にオペラ座で初演され、大変な成功をおさめます。しかし、当時勃発した普仏戦争(1870-1871)やパリ攻囲戦(1870年9月19日から1871年1月28日)の影響でオペラ座は閉鎖され、上演は中断。また、村娘スワニルダを創演したバレリーナが、17歳の誕生日に死去するなどの不幸にも見舞われましたが、戦後、公演は再開。オペラ座でもトップの上演回数を誇る演目となりました。
バレーダンサーのイラスト②

 ちょっとブレイク 「創○○」

その作品が初演されたときに歌った場合に「創唱」、またバレエのように初演で演じた場合「創演」ということがあります。日常ではあまり使わないですね。例えば、ヴィクトル・モレル(1848-1923)は、フランス人でありながらヴェルディお気に入りのバリトンだったため、「オテッロ」のイアーゴや「ファルスタッフ」のファルスタッフを創唱した、などと使われます。
1871年、ドリーブはオペラ座教会オルガニストの仕事を辞めています。一説には、バレエ作曲家としてみられるのを嫌ったと言われています。そのせいか、歌曲の作品がこの頃生まれています。また、コメディー・フランセーズの有名な女優の娘であるレオンティーヌ・エステル・ドゥナン(1844-1919)と結婚します。1871年という年は、ドリーブにとって、ひとつの転換点だったのかもしれませんね。
1873年、ドリーブの作品が、オペラ・コミック座で初めて上演されました。エドモンド・ゴンディネ(1828-1888)の台本による「王さまのお言葉(Le Roi l'a dit)」と題されたオペラ・コミックです。また、出てきました、オペラ・コミック。この作品でドリーブの音楽は絶賛され、ヒット作となりました。ヨーロッパ各地でも上演され、1885年には、改作も行われています。
ドリーブは、再びバレエに取り組みます。こうして生まれたのが「シルヴィア」でした。「シルヴィア」は、新装になったパリ・オペラ座(ガルニエ宮)で1876年6月14日に初演されました。批評家からは、「コッペリア」ほどの評判は得られませんでしたが、一般大衆には人気でした。
1877年、ドリーブはレジオンドヌール勲章シュヴァリエを受章しています。最終的に彼は、オフィシェまで受賞しました。
1880年オペラ・コミック座で、「ジャン・ド・ニヴェル」というオペラ・コミックが初演されます。これは、実在のフランスの貴族ジャン・ド・ニヴェル(1422-1477)の物語をゴンディネフィリップ・ジル(1831-1901)が台本にし、オペラ化したものです。こちらも好評を博し、各地で上演されました。かのフランツ・リスト(1811-1886)は、この中のバラードを使って幻想曲「マンドレイクLa mandragore」というピアノ作品を編み出しています。
1881年、パリ・コンセルヴァトワールの作曲科教授に就任しています。この頃、オペラ・コミック座には話題のアメリカ人ソプラノがいました。その名もマリー・ヴァン・ザント(1861-1919)。彼女のお母さんは、スカラ座などでも歌っていた歌手で、オランダ系でした。ニューヨーク生まれのザントは、イタリアで声楽を学びます。1879年にトリノで「ドン・ジョヴァンニ」ゼルリーナを歌ってデビュー。オペラ・コミック座では、アンブロワーズ・トマ(1811-1896)の「ミニョン」の題名役を歌って登場するや、大評判をとっていました。劇場としては、「彼女を主役とした新しいオペラを上演したい」、との思惑もあり、ドリーブに新作の依頼が舞い込みます。劇場側からは、ピエール・ロティ(本名:ルイ・マリー=ジュリアン・ヴィオー[1850−1923])の最新の自伝的小説「ロティの結婚」を勧められ、ドリーブ、ゴンディネ、ジルの三人は、オペラ化するために創作に励みます。そして生まれたのが「ラクメ」でした。ラクメについては、後で詳しく説明しますね。
1884年、アカデミー・デ・ボザールの会員となり、何不自由ない生活を送ります。そして、1891年1月16日、パリで死去しました。今は、モンマルトル墓地に眠っています。パリ16区には「レオ・ドリーブ通り」があり、メインベルトにある小惑星23937は、「ドリーブ」と名付けられています。

ドリーブのオペラ

ラクメ

ラクメはロティの自伝的小説のオペラ化とお話ししましたね。ロティがタヒチでの出来事を小説に認めたものですが、ドリーブたちのチームは、インドに舞台を移し、バラモン教の高僧の娘ラクメと駐屯イギリス人ジェラルドの恋物語としてまとめました。1883年4月14日に行われたオペラ・コミック座での初演は、ザンドのラクメ、ジャン=アレクサンドル・タラザック(1851-1896)のジュラルドで行われ、大変な成功をおさめます。タラザックは、ジュール・マスネ(1842-1912)の「マノン」デ・グリューや、オッフェンバック「ホフマン物語」の題名役を創唱しました。この二人の活躍により、大変な人気を集め、その後レパートリーとして定着しました。
パリ・オペラ・コミック座のラクメ初演時のポスター
Antonin Chatinière (1828-?), published by Heugel (Paris),
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パリ・オペラ・コミック座のラクメ初演時のポスター
あらすじ
19世紀後半、イギリス統治下のインド。
第1幕 バラモン教寺院の庭園
インド人たちが神に朝の祈りを捧げている。そこへ高僧ニラカンタが現れ、ブラーマンの神に、占領しているイギリス人からの解放を祈る。寺院の中からは、ニラカンタの娘ラクメが祈る歌声が聞こえてくる。皆寺院の中に入り、ニラカンタはラクメに、「お前は我らの守り神」と告げ、二人の召使いハジとマリカにラクメを預け出掛ける。
ラクメは、マリカと共に小舟に乗り、小川へ蓮の花を摘みに出かける。有名な「花の二重唱」。イギリス人将校のジェラルドとフレデリック、家庭教師のベンソンとその生徒エレン(ジェラルドの婚約者)とローズが、好奇心からバラモン教寺院の聖域に入り込む。彼らは五重唱「そんなに美しい人だったら」を歌い、噂に聞くラクメのことを話す。フレデリックは、長居は無用と皆を急かすが、エレンが美しい宝石を見つける。ジェラルドは、同じものを結婚式の時エレンに贈りたいと宝石を模写するために一人残る。そして、アリア「高貴な儚い幻影よ」を歌う。人が来る気配を感じてジェラルドは身を隠す。そこへラクメとマリカが現れる。ラクメはジェラルドに気付き驚くが、二人とも恋に落ちてしまう。二重唱「お前はどこから来たの?」。ニラカンダが来るので、ラクメはジェラルドを逃がす。壊された垣根を見て、ニラカンダは聖域が汚されたこと気付き、「殺してやる」と復讐を叫び、幕となる。
第2幕 インドの街の広場
街の市場には、インド人の他、中国人の露店もひしめき合い賑わっている。正午の鐘が鳴り市場は閉まる。すると巫女達が踊るバレエの場面となる。踊りが終わると、ラクメを連れたニラカンタが苦行僧の姿で現れ、ラクメにアリア「インドの娘はどこへ行く(鐘の歌)」を歌わせる。ラクメの歌声に、侵入者が現れると予想したニラカンタの読み通り、ジェラルドが現れラクメと目が合う。ニラカンタはその男が侵入者だと悟る。折しもイギリス兵が行進してきて、ジェラルドも群衆に紛れる。ニラカンタは彼を追いかける。ラクメが幼い時から仕えているハジは、ラクメの思い通りに命じてほしいと願う。ジェラルドがラクメのところに戻ってくる。ジェラルドの身を案じたラクメは、森の中の隠れ家に身を隠すのが安全と勧める。ジェラルドは軍人の立場と愛との板挟みに悩み、二重唱「君の眠っていた恋の」を歌っていると、密かにニラカンタが近付き、ジェラルドは刺され倒れる。ニラカンタが、復讐を遂げたと思っていることに気付いたラクメは、ハジにジェラルドを森の隠れ家に運ぶよう命じる。
~「森」の副題を持つ間奏曲~

 
森のイラスト
第3幕 森の中の隠れ屋
ラクメはジェラルドを森の中の隠れ家で看病している。ラクメの歌う子守歌「星を散りばめた空の下を」を聞きながら、ジェラルドは目覚める。ジェラルドは「ああなんとこの森の奥深く」を歌い、ラクメの愛に喜びを見いだす。二人はともに暮らす決意をし、ラクメは永遠の愛を得られる聖水を汲みに出かける。するとフレデリックが現れ、彼に軍人の義務エレンへの責任を告げ去っていく。戻ってきたラクメは、ジェラルドの変化に気付く。また、折しも聞こえてきたイギリス軍兵士の歌声に、ジェラルドが母国のことを思っていると知り、、ラクメは全てが終わったと確信する。彼女は密かに有毒花ダチュラを噛み、ジェラルドと聖水を飲み交わし永遠の愛を誓う。突然ニラカンタが入ってきて、ジェラルドを殺そうとする。ラクメは必死にそれを止め、「この人は私と聖水を交わした人」と伝える。そして「私の死をもって神に償います」と言って息絶える。
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現在では、全曲が上演されることは稀ですが、ラクメとマリカの「花の二重唱」は、きっと耳にしたことがあると思います。また、ラクメの歌う「鐘の歌」は、コンクールでもコロラトゥーラソプラノがよく歌います。

参考CD

指揮:ミシェル・プラッソン
ラクメ:ナタリー・デセイ
ジェラルド:グレゴリー・クンデ 他 (1997年録音)
フランス音楽に定評のあるプラッソンの指揮は手堅く、フランスオペラの音源を探すとき、先生は「プラッソンの録音があるかな」と、まず調べます。デセイのラクメは、もうラクメが乗り移ったかのよう。彼女は、その役になり切って歌うので、「何を演っても木〇拓哉」とは、全く違います。美しい高音にも魅了されます。また、クンデのジュラルドも好感。最近はヴェルディの「オテッロ」なども守備範囲に収めているようですが、その少し前の軽めだけど芯のしっかりした時の録音です。チョイ役で、パトリシア・プティボン(エレン)が聴けるのも嬉しいところ。
参考CD(1)