【ふじやまのぼる先生のオペラ講座(45)】
ベルリン・ドイツ・オペラは、その名のとおりドイツの首都ベルリンにあるオペラハウスです。国内在住の日本人が、初めて本格的なドイツオペラと触れ合ったのは、このオペラハウスが嚆矢と言っても過言ではありません。Deutsche Oper Berlinと、ドイツ語の表記では日本語と順序が違っています。日本語にすると、どうも地名を最初に持ってくるきらいがあります。
ベルリン最初のオペラハウスは、プロイセン国王フリードリヒ2世(1712-1786[在位:1740-1786])の命により、1742年にオープンしています。
フリードリヒ2世は「フリードリヒ大王」として名高く、その40年以上にわたる統治では、世界史で習った「オーストリア継承戦争」や「七年戦争」などに関わりを持ち、プロイセンを発展拡大させた立役者としても知られています。その反面、芸術面での造詣が深く、フルートの名手としても知られ、大王自身が作曲した作品が遺されています。そんな彼が王位を継いでまもなく出した命が、オペラハウス建設でした。こうして誕生したのがプロイセン王立歌劇場です。このオペラハウスが280年以上経った現在のベルリン州立歌劇場に繋がっています。これについては、いずれ紹介しますね。
今日お話しするのは、ベルリン・ドイツ・オペラでしたね。この劇場の歴史はそんなに古くはないんです。では早速ひも解いてみましょう。
20世紀初頭、ベルリンには、プロイセン王立歌劇場を頂点とし、いろいろな種類のオペラハウスがありました。しかし「プロイセン王立歌劇場に一般市民が足しげく通う」という時代ではなく、プロイセン王立歌劇場の演目も、一般市民の嗜好とは少し離れていました。「市民レベルの劇場でワーグナーを上演したい」という旗印のもと、「大ベルリン・オペラ協会」なる組織が発足します。当時、ワーグナーにはまだ著作権(上演権)があり、ベルリンではプロイセン王立歌劇場でしか上演ができませんでした。しかし、その期限が切れる時期に当たり、上演に向けた機運が高まったともいえます。そんな中、市民向けに「新しくできるオペラハウスの事前予約」を知らせるダイレクトメールを送り付けます。まだできてないオペラハウスの予約をするって、なかなか勇気のいる事かと思います。しかし、謳い文句が良かったのか演目が良かったのか、この事前予約に市民は殺到します。
こうして集めた資金をもとに、新たに「ドイツ・オペラハウス運営株式会社」が設立され、オペラハウス建設へと進みます。こうしてできたのが「ドイツ・オペラハウスDeutsche Opernhaus」で、1912年11月7日にベート-ヴェンの「フィデリオ」でオープンしました。しかし会場はベルリン市の隣りのシャルロッテンブルク市のビスマルク通りにありました。大通りでベルリン市とつながっているので、鑑賞に通うには大きな問題は無かったようです。
こうしてオープンしたオペラハウスは順調に進みだしました。バイロイト以外での初の「パルジファル」公演や富裕層向けの演目など、2,300席を有する劇場内はいつも華やいでいました。しかし第一次世界大戦により経営は悪化してしまいます。また「大ベルリン計画」により、シャルロッテンブルク市はベルリン市に吸収合併され、市としては集客の見込めないオペラハウスをたくさん抱えるのには消極的でした。その対策として、別のオペラハウスとの合併案が提案されます。その結果、名前も新たに「市立歌劇場Städtische Oper」とし、音楽監督にはブルーノ・ワルター(1876-1962)を、総監督にはハインツ・ティーチェン(1881-1967)を迎え再出発します。1925年9月18日の再オープンはワーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」で祝われました。ワルターやティーチェンが去った後、劇場を支えたのはカール・エーベルト(1887–1980)でした。彼は非常に気骨のある人物で、演出から劇場経営まで手腕を発揮しました。また古典から新作まで多くの作品を披露。その結果当時台頭しつつあったナチスから妨害を受けます。結果として彼は解任され、亡命生活を余儀なくされます。
ナチスが政権を掌握した後、1934年に「ドイツ・オペラハウスDeutsche Opernhaus」と名称を戻します。そして、ナチスに都合の悪い芸術家や関係者が一掃されます。その後劇場にも手が加えられ、2,300あった客席は2,100に減らされます。
当時ナチスは、人々の関心のあったあらゆるものから人々を操作しようと策を練ります。芸術分野も御多分には漏れず、ベルリンのオペラハウスは、王立歌劇場から改称したシュターツオーパーは、ヘルマン・ゲーリング(1893-1946)、ドイツ・オペラハウスはヨーゼフ・ゲッベルス(1897-1945)という二人のナチス高官の支配下に置かれ、煽動活動を行う一つの場と位置付けられました。この二人の対立は、即オペラハウスの対立でもありました。政治家のおもちゃにされてはたまったものではありません。こうした思惑もあり、「ドイツ的」なオペラの上演を担うことになります。1943年に戦禍にまみれ破壊、閉鎖となります。
戦後、人々は飢えや寒さをしのぐのに必死でした。しかし潤いも大事です。ベルリンでも第二次世界大戦後まもなくコンサートやオペラが再開します。ドイツ・オペラハウスは名前を市立歌劇場に戻し、終戦の年の5月末!から活動を再開します。本拠地が破壊されていましたので、場所を転々としますが、テアーター・デス・ヴェステンスで1945年9月2日に「フィデリオ」で幕を開けます。アドミラルパラストで再開したシュターツオーパーは、9月8日に「オルフェオとエウリディーチェ」でオープンしているので、市立劇場の方が早かったことになりますね。
このあたりの歴史的背景は、この本に詳しく書かれています。
1948年にはティーチェンが総監督に返り咲き、1949年には音楽監督としてフェレンツ・フリッチャイ(1914-1963)を迎えます。アイネムの「ダントンの死」初演を急遽指揮した話は、以前しましたね。彼は1952年まで音楽監督を務めますが、1948年にこのオペラハウスにデビューしたときの演目は、ヴェルディの「ドン・カルロ」でした。同時に、名バリトンディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(1925-2012)も、ポーザ侯爵ロドリーゴでデビューしています。1954年には、亡命生活を送っていたエーベルトがティーチェンから引き継いで総監督となります。
フリッチャイ、フィッシャー=ディースカウ、デビューのCD
ドイツ語上演プロローグ付き4幕版
ドイツ語上演プロローグ付き4幕版
衣食住がだいぶ落ち着いてくると、仮住まいではなく本拠地でという機運が高まります。破壊された劇場跡地に劇場再建計画がまとまったのは1956年のこと。それから5年後の1961年9月24日に、モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」でオープンを飾りました。指揮はフリッチャイ、演出はエーベルト。ドン・ジョヴァンニ役はフィッシャー=ディースカウでした。この時名称が現在も使われているベルリン・ドイツ・オペラDeutsche Oper Berlinとなります。エーベルトはルドルフ・ゼルナー(1905-1990)に総監督を譲り引退します。
しかしこの時、ベルリンは激動の時代を迎えていました。華々しく開幕したほんの1ヶ月前、突如として「ベルリンの壁」が現れたのです。これ以降、ベルリン・ドイツ・オペラは西ベルリン唯一の本格的なオペラハウスとなってしまいました。シュターツオーパーと、戦後誕生したコーミッシェ・オーパーは東ベルリン。これは1989年まで続くことになります。
ベルリン・ドイツ・オペラは、新作の上演にも力を入れてきました。先日ご紹介したヘンツェの「裏切られた海(午後の曳航)」の初演をはじめ、ボリス・ブラッハー(1903-1975)、ヴォルフガング・リーム、アリベルト・ライマンなど枚挙にいとまがありません。
そして1963年、日本人にとって画期的な出来事がありました。それが、ベルリン・ドイツ・オペラ引っ越し公演です。これまで、外国人歌手が集団で来日し、オペラ公演を行ったり、オペラ団がやってきたりすることはありましたが、建物以外すべてのスタッフがこぞって来日するいわゆる「引っ越し公演」というのは、今回が初めてでした。新しくオープンする日生劇場で、最初に上演されたのは、ベートーヴェンの「フィデリオ」でした。演出はゼルナー、指揮はカール・ベーム(1894-1981)でした。この時、モーツァルトの「フィガロの結婚」、ベルクの「ヴォツェック」、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」の4作品が上演されています。ベーム以外に当時の首席指揮者のハインリヒ・ホルライザー(1913-2006)と、1965年から音楽監督を務めることになる当時33歳のロリン・マゼール(1930-2014)が同行しています。その後1966年、1970年と来日を重ねました。その後総監督は変わりますが、1981年にゲッツ・フリードリヒ(1930-2000)を迎えます。そして1987年を迎えることになるのです。
1987年。それは日本のオペラ史上、最も稀有なこととして記憶されています。それは、ワーグナーの「ニーベルングの指環」全4作品が、一挙に上演されたのです。「ニーベルングの指環」は、序夜「ラインの黄金」、第1日「ワルキューレ」、第2日「ジークフリート」、第3日「神々の黄昏」の四晩を必要とする作品です。これまでそれぞれの作品が単発で上演されたことはありましたが、続けて短期間に上演されたことはありませんでした。東京と横浜で、合計3回上演された指揮には、当時の音楽監督ヘスス・ロペス=コボス(1940-2018)とホルライザーが分担しました。その後は1993年と1998年に来日公演を行って、日本のファンを楽しませました。
この1993年と1998年ともに指揮を執った一人が、今を時めくクリスティアン・ティーレマンです。ティーレマンは1959年生まれなので、1993年当時34歳。先生はこの時彼の指揮で「ローエングリン」を聴いたのですが、とても30代の指揮とは思えず、手慣れた感じで物語に引き込まれたのを覚えています。と同時に、この演奏がすり込まれてしまったので、他の演奏では物足りなくなってしまったのも事実です。
ティーレマン38歳の1997年、音楽監督に就任します。彼のプロフィールを見ると、10代後半からベルリン・ドイツ・オペラなどでコレペティトゥーアとして研鑽を積んだたたき上げだとか。他の劇場も経験した上で、音楽監督就任。日本では得られない人材だと思います。1998年の来日では、「さまよえるオランダ人」と「タンホイザー」を指揮しています。先生は2003年に本拠地で彼の指揮によるR.シュトラウスの「影のない女」を聴きましたが、40代前半であの演奏ができることに驚き、カーテンコールの歓声や拍手が誰よりも大きいことに納得しました。
この劇場は1961年のオープン公演から映像で記録を残すことを行ってきました。CDの録音もありますが、映像も多いので併せてご紹介します。映像は二種類あって、劇場での上演の様子をそのまま映像にするものと、音声と映像を別に収録し、いわば「映画」のように収録するものがあります。映画大国のドイツですから、最初は「映画オペラ」と呼ばれるものも多かったですが、今は時間もお金もかかるので、実際の上演を収録する方が主流です。いろいろご紹介しますね。
参考CD・DVD
(1)参考DVD
ヴェルディ「オテッロ」
指揮:ジュゼッペ・パターネ
オテッロ:ハンス・バイラー
デズデーモナ:レナータ・テバルディ 他(1962年収録)
指揮:ジュゼッペ・パターネ
オテッロ:ハンス・バイラー
デズデーモナ:レナータ・テバルディ 他(1962年収録)
これは、珍品です。役付きの歌手は、全員原語であるイタリア語で歌唱していますが、合唱はドイツ語です。先生の想像ですが、レナータ・テバルディ(1922-2004)が客演するにあたっての急場の措置ではないかと思います。この当時、この歌劇場では多くのオペラがドイツ語上演でした。
(2)参考CD
ベルク「ヴォツェック」、「ルル」
指揮:カール・ベーム
ヴォツェック・シェーン博士:ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ
マリー・ルル:イヴリン・リアー 他(ヴォツェック:1965年録音、ルル:1968年録音)
指揮:カール・ベーム
ヴォツェック・シェーン博士:ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ
マリー・ルル:イヴリン・リアー 他(ヴォツェック:1965年録音、ルル:1968年録音)
カール・ベーム(1894-1981)は、特にベルリン・ドイツ・オペラの要職に就いていたわけではないですが、この2つは外せない録音です。ベルクのオペラを得意としていたベームには、ウィーン国立歌劇場での素晴らしいライヴ録音があります。ベルクの音はウィーン・フィルで聴きたいとというのが先生の持論ですが、これも捨てがたい、素晴らしい録音です。「ルル」はライヴ。信じがたい名演です。
(3)参考CD
シェーンベルク「モーゼとアロン」
指揮:ヘルマン・シェルヘン
モーゼ:ヨーゼフ・グラインドル
アロン:ヘルムート・メルヒャルト 他(1966年録音)
指揮:ヘルマン・シェルヘン
モーゼ:ヨーゼフ・グラインドル
アロン:ヘルムート・メルヒャルト 他(1966年録音)
指揮者のヘルマン・シェルヘン(1891-1966)が、このオペラのベルリン初演を行った際、2幕冒頭で反対派の観客による騒ぎがありました。シェルヘンは彼らに向かい「まずは音楽を聴いてから判断してくれ」と演説を行い、音楽を続けたとか。この録音は、その舞台をベルリンからローマ歌劇場に移して上演されたものです。アルノルト・シェーンベルク(1874-1951)は、このオペラを未完のまま世を去ります。最初の2幕は完成しているのですが、第3幕は、数ページの台本のみ遺されました。ここをどう扱うかが悩みどころで、たいていは2幕の終わりをオペラの終わりとしています。このCDは、3幕に1幕冒頭の音楽を演奏し、残された台詞をかぶせてしゃべられています。この録音から4年後の1970年、ベルリン・ドイツ・オペラは3回目の来日公演を行い、「モーゼとアロン」の日本初演を行っています。残念ながらその時シェルヘンはこの世にいませんでした。
(4)参考CD
ビゼー「カルメン」
指揮:ロリン・マゼール
カルメン:アンナ・モッフォ
ドン・ホセ:フランコ・コレッリ 他(1970年録音)
指揮:ロリン・マゼール
カルメン:アンナ・モッフォ
ドン・ホセ:フランコ・コレッリ 他(1970年録音)
マゼールは、1965年から1971年まで音楽監督を務めました。その当時の録音がこの「カルメン」です。カルメンについては以前紹介しましたが、ビゼーのオリジナルはオペラ・コミック様式、その後世界中に広まったきっかけとなったのがグラントペラ形式です。多くの劇場でグラントペラ形式が主流だった時代に、オペラ・コミック様式で録音されたのがこのCDです。つまり、曲間にフランス語の台詞を挟みながら進んでいくのです。この辺はマゼールのこだわりでしょう。
(5)参考DVD
コルンゴルト「死の都」
指揮:ハインリヒ・ホルライザー
演出:ゲッツ・フリードリヒ
パウル:ジェームズ・キング
マリー/マリエッタ:カラン・アームストロング 他(1982年収録)
指揮:ハインリヒ・ホルライザー
演出:ゲッツ・フリードリヒ
パウル:ジェームズ・キング
マリー/マリエッタ:カラン・アームストロング 他(1982年収録)
ホルライザーは、1961年から1964年まで首席指揮者を務めただけで、音楽監督ではありませんでした。しかし、彼も劇場の人。ここをはじめウィーンなどの歌劇場でオペラの指揮に引っ張りだこでした。フリードリヒ演出のこのオペラのマリー/マリエッタ役には、彼の奥さんだったカラン・アームストロング(1941-2021)が務めています。
(6)参考CD
R.シュトラウス「サロメ」
指揮:ジュゼッペ・シノーポリ
サロメ:シェリル・ステューダー
ヘロデ:ホルスト・ヒースターマン 他(1990年録音)
指揮:ジュゼッペ・シノーポリ
サロメ:シェリル・ステューダー
ヘロデ:ホルスト・ヒースターマン 他(1990年録音)
ジュゼッペ・シノーポリ(1946-2001)は、1990年に首席指揮者に就任する直前まで行ったのですが、フリードリヒとの確執(と伝えられています)のために契約までは至りませんでした。そのため、このサロメの録音の後、長らくこの歌劇場に登場することはありませんでした。しかし後年和解。2001年には「アイーダ」で再び登場します。しかしその「アイーダ」第3幕で心臓発作のため急死してしまいました。このコンクールともかかわりの深いステューダーの可憐なサロメを聴くこともできます。
(7)参考CD
指揮:クリスティアン・ティーレマン (1995年録音)
ここでは、ハンス・プフィッツナー(1869-1949)とR.シュトラウス(1864-1949)のオペラの中からオーケストラのみで演奏される曲を集めています。両者とも19世紀末から20世紀前半を代表するドイツの作曲家です。没年が同じなのですが、両者の晩年は大きな違いがありました。興味のある人は、調べてみてくださいね。ティーレマンは、1997年から2004年まで音楽総監督を務めました。残念ながらオペラ全曲の収録はありません。録音当時はまだ就任前でしたが、既に日本公演も経験し、オーケストラとの関係は良いように思えます。むせ返るような芳醇なメロディを響かせています。これらのオペラの全曲を聴いてみたいですね。ただ、「カプリッチョ」は上演される作品ですが、その他の作品は滅多に上演の機会がありません。「パレストリーナ」は、上演されてしかるべき作品だと先生は思っています。
(8)参考DVD
フランケッティ「ジェルマニア」
指揮:レナート・パルンボ
フェデリーコ:カルロ・ヴェントレ 他(2006年収録)
指揮:レナート・パルンボ
フェデリーコ:カルロ・ヴェントレ 他(2006年収録)
ティーレマンの後にレナート・パルンボが就任します。以前、新国立劇場や藤原歌劇団の指揮をしていたので、ご存知の方もいるでしょう。アルベルト・フランケッティ(1860-1942)は、以前このブログでも紹介しましたね。ベルリン・ドイツ・オペラでは知られざるオペラの紹介にも力を入れています。パルンボは、2006年から2008年の2年間監督でした。
(9)参考DVD
ヤナーチェク「イェヌーファ」
指揮:ドナルド・ラニクルズ
イェヌーファ:ミヒャエラ・カウネ
ラツァ:ヴィリ・ハルトマン
コステルニチカ:ジェニファー・ラーモア 他(2014年収録)
指揮:ドナルド・ラニクルズ
イェヌーファ:ミヒャエラ・カウネ
ラツァ:ヴィリ・ハルトマン
コステルニチカ:ジェニファー・ラーモア 他(2014年収録)
イギリスの指揮者ラニクルズは、2009年に音楽監督に就任。現在もその職にあります。彼は左手で指揮棒を持つので、ちょっと違和感があります。先生はウィーンで彼の指揮するオペラを何度か聴きましたが、豪快に音を鳴らすような印象を持っています。日本では、まだオペラの指揮は無いようです。