ロッシーニ作曲「セビリャの理髪師」Il barbieri di Siviglia (歌詞:イタリア語) vol.1

【ふじやまのぼる先生のオペラ解説(20)】
初演:1816年2月20日 ローマ、アルジェンティーナ劇場

主な登場人物

登場人物一覧

登場人物相関図

登場人物相関図

あらすじ

18世紀 スペインのセビリャ
第1幕第1場 バルトロの家の前の路上
夜明け前。セビリャの医師バルトロに後見されているロジーナの窓辺に向かい、アルマヴィーヴァ伯爵が楽師を連れて現れる。伯爵は彼女へカヴァティーナ「空には曙光が微笑み」を歌うが手応えはない。楽師を帰したところにアリア「私は町の何でも屋」を歌い、理髪師のフィガロが現れる。早速伯爵はフィガロに、ロジーナとの仲を取り持つよう依頼する。
ロジーナは、起き掛けに聴いた歌に心惹かれ、歌い主に名前を問う手紙をバルコニーから落とす。バルトロに落としたものは何かと問われると「無用の用心」というオペラのアリアと答える。手紙を拾い読んだ伯爵はどう答えようか思案する。その後バルトロが家から現れ、今日中にロジーナと結婚することを家人に告げて出ていく。怒る伯爵にフィガロは、歌に込めて愛をささやくよう勧める。伯爵はギターを伴奏に「わが名はリンドーロ、貧しい学生です」と答える。ロジーナはもっと続けてと歌い返す。しかし家人に戸を閉められてしまう。伯爵はフィガロに金を握らせて、助力を願う。二重唱「金を見れば知恵がわく」
手紙のイラスト
第1幕第2場 バルトロ家の居間
リンドーロへの手紙を書き終わったロジーナは、彼への愛をアリア「今の歌声は」にのせて歌う。その後フィガロがやってきて、ロジーナと話をしようとするが、バルトロが帰ってくるのでフィガロは隠れる。バルトロのもとに音楽教師のバジリオがやって来る。バジリオは、「アルマヴィーヴァ伯爵がロジーナ目当てにこの街にやってきているので、悪い噂をばらまいて伯爵を追い出そう」と、アリア「陰口はそよ風のように」を歌う。邪魔者出現にバルトロは、すぐにでもロジーナと結婚してしまおうと言い、2人で立ち去る。それをすっかり聞いたフィガロは、現れたロジーナにバルトロと今日中に結婚させられる話をする。憤慨するロジーナにフィガロは、「リンドーロがロジーナに夢中だ」と告げる。ロジーナは、二重唱「それじゃ私ね」を歌って喜ぶ。ロジーナは用意してあったリンドーロへの手紙をフィガロに渡す。
手紙のイラスト2
手紙を受け取ったフィガロが去ったあとバルトロが現れ、ロジーナの手にインクが付いているのを見つけ、さらに紙が一枚なくなっているので、誰かに手紙を書いていたのではないかと問いただす。ロジーナがうまくはぐらかすのでバルトロは怒り、アリア「私のような医師に向かって」を歌う。そこに伯爵が仕官に変装し、酔っ払いを装ってロジーナの家にやって来る。伯爵は、さんざんバルトロをからかった挙句、宿泊許可証を振りかざし、今日はここに泊まると大騒ぎ。そのすきにこっそりロジーナに手紙を渡すことに成功する。フィガロが仲裁に来るが、兵隊たちを連れた士官が現れて事態を鎮静化する事態に。バルトロの訴えで伯爵は逮捕されそうになるが、士官に自分の身分を明かす。固まる兵隊たち。大騒ぎのうちに幕となる。

自選役

このオペラからは、ロジーナアルマヴィーヴァ伯爵フィガロの3役が静岡国際オペラコンクール第二次予選自選役リストに含まれています。

豆知識「同じ名前のオペラ」

世の中には、同名オペラ内容が同じオペラが数多く存在します。これには理由があって、例えば、ピエトロ・メタスタージオ(1698-1782)や、カルロ・ゴルドーニ(1707-1793)、ウジェーヌ・スクリーブ(1791-1861)などの有名な台本作家による作品は、いろいろな作曲家の手によりオペラ化されました。ヒット作になるには、台本の良し悪しも大きな要因となります。ヒットが出れば、柳の下のどじょうを狙うべく、その台本は引っ張りだこになりますね。しかし、1つが有名になりすぎると、他の同名オペラはどうしても陰に追いやられてしまう傾向にあります。
ロッシーニ以前の「セビリャの理髪師」といえば、ロッシーニの先輩作曲家ジョヴァンニ・パイジエッロ(1740-1816)が、ロシアのサンクト・ペテルブルクで1782年に初演した作品が知られていました。当時パイジエッロは、エカチェリーナ2世の招きでサンクト・ペテルブルクに滞在していました。かなりの人気作で、初演後瞬く間にヨーロッパ中を席巻しました。
それから34年後の1816年、ロッシーニは同じ内容の作品をローマで初演するに当たり、題名を「アルマヴィーヴァ、または無用の用心」と変更し(これには、出演する高名なテノールを主役[タイトルロール]にしたかったという思惑もあったようです)、まだ存命だったパイジエッロに許可を得る手紙を送ったといいます。当時ロッシーニは24歳。死の間際だったパイジエッロが「若造が、猪口才な!」と言ったかどうかはわかりませんが、同じ内容のオペラ初演を聞きつけたパイジエッロ支援者たちや、失敗を願う他の劇場関係者は、初演時に口笛を吹いたり野次を飛ばしたり、はたまた猫を劇場に入れるなどかなりの妨害を行ったそうです。初演に臨席したロッシーニは気に病んで、2回目の公演時には仮病を使って、ホテルにこもっていたそうです。しかし2回目以降、嘘のように妨害はなく、瞬く間に先輩作品の人気を奪ってしまいました。題名は同じ年(1816年)ボローニャでの上演で「セビリャの理髪師」に戻し、現在に至っています。
パイジエッロの「セビリャの理髪師」のCD
ロッシーニの「セビリャの理髪師」のアルマヴィーヴァ伯爵を得意とするアントニーノ・シラグーザが、パイジエッロの「セビリャの理髪師」の同役を歌っています。
 
パイジエッロの「セビリャの理髪師」CD
しかし、ロッシーニがパイジエッロの名を翳ませたように、ロッシーニの名を翳ませる作品の初演が71年後に起きています。ロッシーニはシェイクスピアの「オセロー」を原作とする「オテロ」を、「セビリャの理髪師」初演と同じ年の12月に発表しています。ところはナポリ。名門歌劇場として知られていたサン・カルロ劇場には、優れたオーケストラと優れた歌手がおりました。しかし「セビリャの理髪師」初演のためにロッシーニがローマに行っている間に歌劇場は火災で焼失。仮住まいのフォンド劇場で「オテロ」は初演され大成功を収めます。当時、オペラ・セリア(まじめなオペラ)でも最後はハッピーエンドがお約束の時代でした。ロッシーニも最初はハッピーエンドを考えたようでしたが、最終的にシェイクスピアの原作通り、オテロがデズデーモナを殺害し、自刃する結末で作曲しました。ナポリはそれを受け入れるだけの土壌があったからです。しかし他のイタリアの都市では評判が悪く、「デズデーモナの必死の訴えにオテッロの誤解も解け丸く収まる」という別バージョンまで登場しました。ともあれ、3幕仕立てのこの「オテロ」の第3幕は緊張感に富み、19世紀に人気の作品であったこともうなずけます。
さて、そのロッシーニの名前を翳ませた作品こそ、ヴェルディが奇才アッリーゴ・ボーイト(1842-1918)と組んで1887年に初演した「オテロ」でした。嵐を表現する最初の一音から、最後のオテロの死まで、息つく暇も与えない緊張感をもって、破滅へと突き進みます。ちなみにヴェルディも、ロッシーニの作品のことが頭にあり、題名を影の主役である「イアーゴ」に変えようかと考えていたそうです。ともあれ「オテロ」初演時には、すでにロッシーニは鬼籍に入っていたので、許可の手紙は出さなかったようですよ。
押しも押されもせぬ大巨匠となったヴェルディの十数年ぶりの新作オペラは、ミラノ・スカラ座で華々しく初演され、大成功だったと伝えられています。今日「オテロ」と言えば、まぎれもなくヴェルディのオペラを指します。ロッシーニの「オテロ」も音源がありますので、ぜひ!
ロッシーニの「オテロ」のCD​
 
パイジエッロの「セビリャの理髪師」CD
第2幕は次回ご紹介します。