~今月の作曲家~「シュミット」(2022年12月)

【ふじやまのぼる先生の作曲家紹介(12)】

シュミット

フランツ・シュミット(Franz Schmidt)は、1874年12月22日に、今のスロヴァキアの首都であるブラチスラヴァで生まれた作曲家です。当時はオーストリア=ハンガリー帝国プレスブルクと呼ばれる街でした。ドイツ人とハンガリー人の家系を持つ父もフランツ・シュミット(1848-1910)といい、運送業を営む商人でした。ハンガリー出身の母マリア(1853-1931)は優れたピアニストで、すぐに息子の音楽的な才能に気付きます。小学校教師のルドルフ・マーダーやプレスブルクの劇場の指揮者であったルートヴィヒ・ブルガーからピアノを、近くの教会の神父であるフェリツィアン・ヨーゼフ・モジック(1861-1917)からオルガン音楽理論を学び始めました。また、短期間ではありますが高名なテオドール・レシェティツキ(1830-1915)からピアノを習います。「あの」練習曲で有名なカール・ツェルニー(1791-1857)の弟子であったレシェティツキの門下には、イグナツィ・ヤン・パデレフスキ(1860-1941)、アルトゥル・シュナーベル(1882-1951)、パウル・ウィトゲンシュタイン(1887-1961)、ミェチスワフ・ホルショフスキ(1892-1993)など錚々たるピアニストがいます。シュミットの演奏を聴いたレシェティツキは、「素材はそこそこある。しかしシュミットと呼ばれる人は、アーティストになっちゃいけないんですよ。」と述べたと言います。
Rektor Hofrat Prof. Franz Schmidt (cropped)
  Georg Fayer, Public domain, via Wikimedia Commons
フランツ・シュミット
(1874-1939)
「二度とピアノなんか弾きたくない」と思っていたシュミットに思わぬ転機が訪れます。1888年父親の事業が法に触れるようなトラブルを起こし、このことはシュミット家のみならず、フランツの人間形成として大きな影響を与えることとなります。一家はウィーンへと移住します。シュミットはウィーン郊外のペルヒトルツドルフの裕福なグリーナウアー家の家庭教師となります。この地で独学で基本的な教育を終えます。
シュミットは、1890年からウィーン楽友協会音楽院(現在のウィーン国立音楽大学)で音楽の勉強を始め、作曲をロベルト・フックス(1847-1927)に、チェロをフェルディナント・ヘルメスベルガー(1863-1940)に、対位法を短期間アントン・ブルックナー(1824-1896)に師事しています。この頃同級生のエラ・ツヴィーバック(1878–1970)と恋愛関係になります。フックスに師事はしますが、作曲のほとんどは独学だったようです。
チェロ奏者のイラスト
1896年2月学内のコンサートで、ハイドンのチェロ協奏曲を、自作のカデンツァを使い演奏。最晩年のヨハネス・ブラームス(1833-1897)から称賛を得ます。優秀をもって音楽院を卒業後、14名の応募者の中から選出され、10月1日からウィーン宮廷歌劇場チェリストとなります。皆さんもご存知かと思いますが、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団は、ウィーンの宮廷(のちに国立)歌劇場のメンバーの自主的な活動です。シュミットも1911年までウィーン・フィルのチェリストであり、1914年まで宮廷歌劇場のチェリストでした。彼の最初のオペラでのチェロ演奏は、ウィーン宮廷歌劇場総監督ヴォルヘルム・ヤーン(1835-1900)指揮するワーグナーの「タンホイザー」でした。このころ交響曲第1番の作曲にとりかかります。
ヤーンの次にグスタフ・マーラー(1860-1911)が1897年10月に総監督になりました。シュミットもマーラーのもとで数多くの演奏を行ったことでしょう。その時代の多くの人と同じようにシュミットも、マーラーを指揮者としては大変高く評価していましたが、作曲家としては認めていなかったと言います。逆もまた然りで、マーラーはシュミットのことをチェリストとして一目置いていました(なかなか首席奏者にはなれなかったようですが)が、作曲家としては認めておらず、後で紹介するシュミットのオペラ「ノートル・ダム」の宮廷歌劇場での上演を拒否しています。それにもめげず、シュミットは、オーケストラピットからいろいろな創作上のアイディアを得ていたようです。
1899年プレスブルクにてカロリーネ・ペリン(1880-1942)と結婚。このころ交響曲第1番が完成します。1901年には音楽院でチェロを教えるようになり、その年の12月16日(ベートーヴェンの誕生日といわれている日)には、交響曲第1番が認められ、ウィーン楽友協会から「ベートーヴェン賞」が授与されました。こうして最初の交響曲の初演が翌1902年1月25日に決まり、ウィーン楽友協会大ホール(ニューイヤーコンサートが行われる黄金のムジークフェラインザール)において、「新しい音楽の演奏会(Novitäten-Concert)」と呼ばれるコンサートで、彼自身の指揮により初演されました。この年には娘エマが生まれ、交響曲第1番も11月にウィーン・フィルによって再演されるなど、順調な滑り出しでした。なお、この時の指揮者は、チェロの先生であったフェルディナント・ヘルメスベルガーのお兄さんのヨーゼフ・ヘルメスベルガー2世(1855–1907)でした。ヘルメスベルガー家は音楽一家で、ウィーンでは知らない者はいないほどの名家でした。
1902年頃から最初のオペラ「ノートル・ダム」の作曲を開始。シュミットはオペラのエッセンスとして「間奏曲」「謝肉祭の音楽」をオーケストラ用に編み、「間奏曲」が、1903年12月6日にウィーン・フィルによって初演されます。1904年には全曲が完成し、当然ウィーン宮廷歌劇場で初演できるものと思っていたシュミットでしたが、前記のとおりマーラーが拒絶。少なくない衝撃を受け、その後7年に渡り、作曲の筆は停滞してしまいました。その代わり、チェロの演奏や教育活動が活発となります。
オーケストラのイラスト
以前ご紹介したシェーンベルク(1874-1951)は、シュミットと同年の生まれです。しかしこの2人の作風は非常にかけ離れています。シュミットは良くも悪くも後期ロマン派の影響を感じさせます。片や十二音技法といった最先端の音楽を模索するシェーンベルク。シュミットはチェリストとしてシェーンベルクの「清められた夜」の世界初演に参加しています。そのような経験から、少なからずシェーンベルクの影響を受けていると先生は思っています。シェーンベルクは人種的な問題から音楽院の教職を去らなければなりませんでしたが、シュミットはそのことを気にしていたようで、後年「月に憑かれたピエロ」の演奏を学生にさせたり、ピアノリサイタルでシェーンベルクの曲を取り上げたりしています。
ピアニストとしても優秀だったシュミットは、1910年頃から、ピアニストとしても活動を開始します。1911年には、ウィーン・フィルのチェリストの職を辞しています。ついに1914年には歌劇場のチェリストも辞し、同年から音楽院のピアノ教師となります。作曲活動も復活し、交響曲第2番に取り掛かります。1913年に完成したこの曲は、3楽章形式。第2楽章が長大な間奏曲となっていて、音符の数も膨大。演奏にはかなりの技術が求められます。この交響曲、名古屋フィルハーモニー交響楽団で演奏されます。ご興味のある方はぜひ!
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名古屋フィルハーモニー交響楽団 第518回<ウィーン伝統の継承>
2023年12月8日(金)9日(土)
https://www.nagoya-phil.or.jp/news/news_2022_09_20_180048
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この間嬉しい出来事もありました。ウィーン宮廷歌劇場と「ノートル・ダム」初演の契約が結ばれます。完成から10年、1914年4月1日、晴れて初演となりました。指揮は、後年ウィーン国立歌劇場音楽監督となるフランツ・シャルク(1863-1931)でした(当時音楽監督は不在でした)。また、この年の11月29日、ウィーン・フィルでも交響曲第2番が演奏されます。こちらの指揮は当時のウィーン・フィルの首席指揮者であったフェリックス・ワインガルトナー(1863-1942)でした。シュミットの名声の高さがうかがえますね。「ノートル・ダム」については、後でお話ししますね。
彼の私生活は、作曲・演奏活動とは違い、かなりの波乱がありました。シュミットの妻カロリーネは、少しずつ精神に異常をきたし始め、1919年に精神病院に入院することになります。シュミットは1922年、彼女と離婚しています。また、学生時代に付き合っていたエラとの間にはルートヴィヒ・ツィルナー(1906-1971)という息子がいました。ルートヴィヒは、エラが結婚したアレクサンザー・ツィルナーに引き取られ育ち、何と音楽院で父親からチェロ、ピアノ、作曲を学んでいます。当時はシュミットが父親だとは知らされておらず、真相を知ったのは1961年だとか。彼はアメリカで音楽の教鞭をとっています。娘のエマとカロリーネのその後については、後でお話ししますね。
作曲する人のイラスト
1916年には、第2作目のオペラ「フレディグンディス」の作曲を開始、1921年に完成します。ベルリンでの初演は失敗に終わり、たった1回しか上演されませんでした。ウィーンでの上演も4回。それも予定されていた指揮者が変更になっての上演でした。
1920年からは音楽理論も担当するようになり、1923年、教え子だったマルガレーテ・ジラセク(1891–1964)と再婚。この頃ちょっと変わった依頼が舞い込みます。それは、第一次世界大戦で右手を失ったピアニストのパウル・ヴィトゲンシュタイン(1887-1961)からの依頼でした。彼は、左手だけで演奏できるピアノ曲を、当時の有名作曲家に依頼していたのでした。有名なのは、モーリス・ラヴェル(1875-1937)の「左手のためのピアノ協奏曲」ですね。シュミットもこれに応じ、左手ピアノと管弦楽のための「ベートーヴェンの主題による協奏変奏曲」「左手のためのピアノ協奏曲」「左手ピアノ五重奏曲」などを作曲しました。音楽院では1925年に校長に、1927年には学長に選出されます。しかし健康状態はあまりよくありませんでした。
この頃、シュミットが出演したコンサートのプログラムがあります。1920年12月2日、ウィーン楽友協会大ホールにおけるウィーン・トーンキュンストラー管弦楽団(某日本人が首席指揮者を務める「トーンキュンストラー管弦楽団」とは違います。こちらは本来ならば「ウィーン」は付きません。)のコンサートでベートーヴェンの「合唱幻想曲」を演奏しています。指揮は不世出の大指揮者ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(1886-1954)でした。フルトヴェングラーは翌年ベルリン・フィルの常任指揮者に就任します。
コンサート画像
アメリカのコロンビア・レコードが企画し、シューベルト没後100年(1928年)を記念した作曲コンクール。シューベルトの精神を継いだ作品を、各国から代表作を出させて競うというものでした。そのオーストリア代表としてシュミットは交響曲第3番を作曲しました。コンクールはスウェーデンの作曲家、クット・アッテルベリ(1887-1974)の交響曲第6番が首席で、第2席にシュミットの交響曲第3番が入りました。賞金「一万ドル」にちなんで、アッテルベリの作品は通称「ドル交響曲」と呼ばれています。
1929年、娘のエマが結婚。1931年には「軽騎兵の歌による変奏曲」を作曲。この曲は、大指揮者ハンス・クナッパーツブッシュ(1888-1965)が得意としており、この録音を先生は愛聴しています。
軽騎兵CD
1932年嫁いだ娘のエマが懐妊。しかし、出産の際にエマは命を落とします。シュミットは深く悲しみ、「娘のためのレクイエム」として交響曲第4番を作曲し始めます。この交響曲は4つの部分からできていますが、すべて切れ目なく演奏されます。最初と最後を告げるのはトランペットのソロ。胸をかきむしられるほどの壮絶な音楽です。
交響曲第4番
1935年、シュミットの60歳を祝し、ウィーン大学から名誉博士号を授与、「オーストリア・メダル」の授与、ウィーン・フィルの名誉会員選出など、様々な栄誉を受けます。また、ウィーン・フィルを指揮して交響曲第4番を演奏するなど、幸運なひと時だったと思います。しかしこの年の夏、大きな心臓発作に見舞われます。シュミットは自分の命がそう長くないことを自覚し、最後の大作「七つの封印の書」を作曲し始めます。この作品は、「ヨハネの黙示録」をもとに作曲され、四声部のソロと四声部の合唱に加え、ヨハネを歌うテノールと主の声を歌うバス、それにオルガンを伴う大規模な管弦楽。演奏には二時間を要します。先生はこの曲を何度が聴きましたが、まさか日本で聴くことができるとは思いませんでした。
七つの封印を有する書
この公演は主の声とバスを同一の歌手が歌っています。なお、この公演は録音され、CDで販売されています。
更なる健康状態の悪化に伴い、1937年教職から引退します。「七つの封印の書」は無事完成し、初演を見届ける事ができました。しかし時代も健康状態も、悪化の一途をたどります。ついに1938年にはオーストリアはなくなり、ドイツの1つの州となりました。日本人は「独墺」という言葉をよく使い、同じような国民性だと思いがちですが、実は全く違います。今でこそ「小澤征爾」がウィーン国立歌劇場の音楽監督になれる時代ですが、リヒャルト・シュトラウスが監督になった時には「あのドイツ人が」と抗議に会い、シャルクとの共同監督で落ち着いたと言います。そのくらい、お互いに自分たちのアイデンティティーを大切にしている両者が同じ国になった。シュミットは「アンシュルス」に賛成していたと言いますが、どんな気持ちだったのでしょうね。
1939年2月11日心臓発作でシュミットは亡くなります。オーストリアがなくなって1年弱のことでした。先妻のカロリーネはどうなったのでしょう。彼女は1942年ナチスの「安楽死プログラム」により殺害されたと言います。
ウィーン中央墓地にあるフランツ・シュミットの墓。2番目の奥さんのマルガレーテと眠っています。
ウィーン中央墓地にあるフランツ・シュミットの墓
フランツ・シュミットの墓写真
彼の晩年は、激動の時代でした。没後5年目にはウィーン国立歌劇場において「ノートル・ダム」が追悼公演として行われました。この時は、不遇のオペラ「フレディグンディス」から葬送音楽も演奏されました。当日の配役表です。
ノートルダムのポスター
間もなくしてウィーン国立歌劇場は戦禍のため公演を休止。戦争末期に連合軍の攻撃(巨大な建物なので、駅と間違えられたようです)で使用できなくなってしまいます。戦後、仮住まいとして、アン・デア・ウィーン劇場フォルクスオーパーで公演を続けます。「ノートル・ダム」は、フォルクスオーパーで20回ほど公演されましたが、その後ウィーン国立歌劇場での上演はありません。
残念ながらというか当然ながらというか、シュミットが現在の日本で有名作曲家であるとは言えません。日本語の著書はありませんが、名前はいろいろなところで散見されます。フランスにフローラン・シュミット(1870-1958)という作曲家がいますが、ごっちゃにされることも多いです。イニシャルも同じなので、フルネームで書かないと区別できません。参考文献として、だいぶ古いですが、次の書籍をご紹介します。
フランツシュミット参考書籍
しかし昨年、以下のようなコンサートがありました。「瓢箪から駒」のような出来事でしたが、シュミットファンの先生としてはまさに僥倖。
読売交響楽団演奏会 フランツシュミット
2022年からNHK交響楽団の首席指揮者に就任したファビオ・ルイージ。彼はシュミットを得意としていて、昨年交響曲第2番をNHK交響楽団で演奏する予定でしたが、コロナ禍で来日ができず、先生は悲しい思いをしました。しかし彼はシュミットの曲を連続して録音しており、交響曲全集七つの封印の書左手ピアノと管弦楽のための作品があります。交響曲全4曲の解説には、シュミットの詳しい年表が付いていますので、ご興味のある方はぜひ。ただし4曲全て買わないと、年表は完成しませんのでご注意を。
ファビオルイージCD

シュミットのオペラ

「ノートル・ダム」
フランスの小説家、ヴィクトル・ユーゴー(1802-1885)が1831年に出版した「ノートル・ダム・ド・パリNotre-Dame de Paris」が原作になっており、ディズニー映画「ノートル・ダムの鐘(The Hunchback of Notre Dame)」にもなっているので、なんとなく内容はおわかりの方が多いかと思います。ディズニー映画はハッピーエンドでしたが、オペラは悲劇的な結末です。

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あらすじ

中世のパリ
第1幕第1場 グレーヴ広場へ通じる街路
カーニバルグレーヴ広場に集まるロマたち。衛兵将校のフェブスは、仲間の将校に、襲われそうになっていたところを助けた、ロマのエスメラルダの美しさを熱っぽく語っている。将校はフェブスに「彼女には夫がいる」と告げ、言うそばからエスメラルダの夫であるグランゴワールが現れる。その後エスメラルダが現れ、フェブスの熱い視線に気付き微笑む。ノートル・ダム大聖堂の鐘撞き男で、背中の曲がったカジモドが、「道化の教皇」の姿で広場に現れ、皆にさんざん攻撃をされている。カジモドも反撃に出るので、フェブスと将校が仲裁に入るが、逆にカジモドに攻撃されるので、剣を振り上げカジモドに怪我をさせてしまう。エスメラルダの仲裁で、ようやく騒ぎは収まる。そこに大聖堂の助祭長が現れる。カジモドに外出を禁止していた助祭長は彼を叱り、群衆にはカーニバル禁止を命じる。皆はしぶしぶ去っていく。カジモドを介抱していたエスメラルダは、助祭長の視線に何か怪しいものを感じる。助祭長はカジモドを連れ帰り、フェブスはエスメラルダに、今夜の逢引の場所を伝え去る。それを聞いてしまったグランゴワール。
第1幕第2場
グランゴワールはかつて助祭長の弟子だったが、今はロマの仲間になり、エスメラルダを娶っていた。助祭長がそのいきさつを訊ねると、グランゴワールはモノローグ「ああ、この歌は彼女自身のように神々しい!」で、ロマしか入れない場所に迷い込んだことがあり、その罰として、彼を夫として迎える女性がいなければ、彼は殺されることになっていた。そこで、見せかけの結婚をして彼の命を救ったのがエスメラルダであったのだ。助祭長は、エスメラルダから目を離さないようにとグランゴワールに忠告する。グランゴワールの心とは裏腹に、街はカーニバルに浮かれている。
第1幕第3場 ファルーデル婆さんの家
グランゴワールはフェブスとエスメラルダとの密会場所である家に忍び込むことに成功する。二人が愛を告白したとき、グランゴワールはナイフを持ってフェブスに突進し、彼を刺す。捕まるのを避けるために、窓からセーヌ川に飛び込む。
川のイラスト
第2幕第1場 地下牢
エスメラルダはフェブスの殺人容疑者として逮捕された。地下牢にいる彼女を訪ねた助祭長は、モノローグ「安らかに平和に夢見ていられるであろうか」でエスメラルダへのよこしまな心を歌う。目覚めたエスメラルダは助祭長に、グランゴワールが刺したと、身の潔白を訴える。助祭長はフェブスが生き延びたことを彼女に話す。エスメラルダに生気がみなぎり、フェブスに会わせてほしいと訴える。助祭長は一瞬エスメラルダ逃亡を助けようと思うが、そんな自分に怒り、地下牢を出ていく。
第2幕第2場 大聖堂の前の広場 昼間
助祭長は聖歌を歌い、エスメラルダを死刑執行人の手に委ねようとする。その瞬間カジモドが現れ、大聖堂の内部に連れ込まれる。広場からは群衆がその様子を見ていて、聖域内である大聖堂に逃げ込めば手出しができないと喜ぶ。
第2幕第3場 大聖堂の尖塔の間の平台 夜
エスメラルダはモノローグ「まどろみも私の眼には近付こうとしない」を歌い、フェブスを思う。カジモドが話しかけるが、エスメラルダは自分の運命を悟っている。そんな運命を変えようと動き出そうとしたところに、助祭長に率いられた兵士たちが入ってくる。助祭長は勅命を持って、聖域に踏み込んできたのだった。カジモドの抵抗虚しく、エスメラルダは連れ去られる。下の広場では、群衆がエスメラルダ捕獲を喜んでいる。カジモドは塔の上から石像のかけらを群集めがけて投げつける。エスメラルダが処刑の場所に導かれるとき、助祭長は自分の行動が間違っていたことに気付く。カジモドは、助祭長に激しい憎悪の念を抱き、助祭長を突き落とす。カジモドは深く嘆き、彼女のそばに行くと言い残し、鐘を鳴らし幕となる。
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参考CD

今までに2種類のCDが発売されていますが、録音の新しい方をご紹介します。
エスメラルダ:ギネス・ジョーンズ
カジモド:クルト・モル
指揮:クリストフ・ペリック 他 (1988年録音)
とても立派な演奏です。このメンバーでワーグナーリヒャルト・シュトラウスの録音もできるくらい。まず、エスメラルダのギネス・ジョーンズ。先生は彼女の歌うイゾルデブリュンヒルデをよく聴きました。最近はこのように「カーン」と突き抜ける声のソプラノが少なくなった気がします。カジモドのクルト・モルも大変立派で、ガジモドの悲哀が低音から伝わってきます。どの役にも穴がなく、自信をもってご紹介できるCDです。
ノートルダムのCD