~今月の作曲家~「シューベルト」(2023年1月)

【ふじやまのぼる先生の作曲家紹介(13)】

シューベルト

別名「歌曲の王」と呼ばれるシューベルトとオペラって、みなさん結びつきますか?実は、結構たくさんのオペラ創作を行っているのです。では、その半生とともに解説していきましょう。

Franz Schubert by Wilhelm August Rieder 1875
Wilhelm August Rieder, Public domain, via Wikimedia Commons
フランツ・シューベルト
(1797-1828)
フランツ・ペーター・シューベルト(Franz Peter Schubert)は、1797年1月31日に、ウィーン郊外リヒテンタールで生まれました。リヒテンタールとは「光の谷」という意味で、その紋章を見れば、文字の読めない人でもここがリヒテンタールであることがわかります。父フランツ・テオドール(1763-1830)は、教師をしており、母はマリア・エリーザベト・カテリーナ・フィッツ(1756-1812)、長男イグナーツ(1785-1844)、次男フェルディナント(1794-1859)、三男カール(1795-1855)、妹マリア・テレージア(1801-1878)という、お兄さんが三人、妹が一人の兄妹でした。
リヒテンタールの紋章
リヒテンタールの紋章
アマチュアの音楽家だった父は、シューベルトたちに音楽を教えます。学齢期になると、シューベルトは兄たちを凌ぐ才能を発揮したため、父はリヒテンタール教会の聖歌隊に彼を預け、指導者ミヒャエル・ホルツァー(1772-1826)より高度な音楽教育を受けます。シューベルト家では、弦楽四重奏の演奏をよく行い、フェルディナントとイグナーツがヴァイオリン、シューベルトがヴィオラ、父がチェロを担当していました。この演奏を通して、彼が弦楽四重奏曲を作曲するというのは、自然な成り行きだったようです。ホルツァーはシューベルトに献身的に指導し、良いピアノで練習できるよう便宜を図ったと言います。
シューベルトはより高い教育を受けるため、1808年に宮廷礼拝堂の聖歌隊のメンバーとなり、同時にコンヴィクトの生徒となります。コンヴィクトとは寄宿制の神学校で、高度な音楽教育を受ける事ができました。宮廷礼拝堂の聖歌隊は後に「ウィーン少年合唱団」となり、コンヴィクトは現在のウィーン国立音楽大学へと通じます。ここでシューベルトはアントニオ・サリエリ(1750-1825)に才能を見出され、個人レッスンを受けるようになります。また、友人たちにも恵まれ、貧しかったシューベルトの物心共に支えとなりました。また学生オーケストラも存在し、雑用係からセカンドヴァイオリン、間もなくコンサートマスターを任されるようになります。また指導者に代わって指揮を任されることもあり、多くの経験を積むこともできました。雑用係では、楽譜の管理やパート譜づくりを通して、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンの音楽を知る良い機会となりました。1812年には変声期を迎え、聖歌隊で歌えなくなりますが、1年の猶予を与えられ、1813年にコンヴィクトを去ることになります。この間の1811年には最初のジングシュピール「鏡の騎士」交響曲第1番の作曲を試みています。残念ながら「鏡の騎士」は未完に終わっていますが、交響曲はコンヴィクト卒業後に完成され、卒業後も交流のあったコンヴィクトのオーケストラによって初演されたと思われます。
1813年兵役を逃れるために師範学校に入り、翌年、父親の務める学校の教師となります。教師にはあまり興味が持てなかったようで、暇を見つけて作曲を続けました。また、サリエリのレッスンも続いていました。二年余りの教職時代には、交響曲が二曲、最初の完成されたオペラ「悪魔の別荘」ミサ曲三曲が作曲されています。ミサ曲第1番は、通い慣れたリヒテンタール教会の100周年に合わせて作曲、初演されています。何より1814年に作曲された歌曲「糸を紡ぐグレートヒェン」をもって「ロマン派芸術歌曲」が成立したと言われています。1815年には「魔王」「野ばら」などの歌曲が作曲されます。「4年間の哨兵勤務」「フェルナンド」「サラマンカの友人たち」という3つのジングシュピールが完成されました。
シューベルトの初恋の相手は、テレーゼ・グロープ(1798-1875)でした。シューベルトと同じリヒテンタールの生まれで、良い声を持ったソプラノでした。ミサ曲第1番の初演で、ソプラノソロを務めたのも彼女でした。しかし、結婚するまでには至りませんでした。当時の法律では、定職を持たない男子は結婚できなかったのです。シューベルトも、ライバッハ(現在のリュブリャナ)での就職を模索しますが結局うまくはいきませんでした。
作曲する人のイラスト
1816年転機が訪れます。友人の勧めで教職を辞し、作曲のみの生活が開始されます。何よりシューベルトを支えたのは友人たちでした。コンヴィクトから続く友人ヨーゼフ・フォン・シュパウン(1788-1865)、詩人、俳優、外交官のフランツ・フォン・ショーバー(1796-1882)、シューベルトの歌曲を歌い広めたウィーン宮廷歌劇場の歌手のヨハン・ミヒャエル・フォーグル(1768 -1840)などが挙げられます。彼らはシューベルトを囲んで集まり、会場はレオポルト・フォン・ゾンライトナー(1797-1873)の家のサロンでした。ちなみにレオポルトの伯父ヨーゼフ・ゾンライトナー(1766-1835)は、ベートーヴェンの「フィデリオ」初稿の台本を書いた人でした。この集まりを「シューベルティアーデ」と呼ぶようになります。この頃は、交響曲第4番・第5番や、「子守歌」「死と乙女」「楽に寄す」「ます」などの歌曲が作曲されています。
1818年には、管弦楽曲である「イタリア風序曲ニ長調」が公開演奏されます。当時ウィーンは、ロッシーニ・フィーバーに沸いていました。その流れにシューベルトが乗ったとは思えませんが、イタリアの風に惹きつけられたと考えられます。交響曲第6番ミサ曲第4番が作曲され、翌年フォーグルと共に旅行に出かけた折には、ピアノ五重唱曲「ます」が作曲されています。フォーグルの尽力で、ウィーンの宮廷歌劇場の一つであるケルントナートーア劇場からの依頼によるジングシュピール「双子の兄弟」も完成しました。
1820年ついに「双子の兄弟」がウィーンのケルントナートーア劇場で上演されます。それまでに作曲された全ての劇場作品は、シューベルトの生前に上演されていません。上演の話がありながら、その機会が失われてしまったため、未完で終わったものも多いのです。フォーグルも参加した「双子の兄弟」初演は、まずまずの成果だったようですが、のちの批評家たちは、台本の弱さ話の稚拙さを成功へ導けなかった原因に挙げています。
ゾンライトナーは、シューベルトに「なぜ楽譜を出版しないのか」と質問していました。シューベルトは「出版社が相手にしてくれないし、自費出版する金はない」と答えたと言います。その機会が1821年にやってきます。ゾンライトナーは、出版業を営むアントン・ディアベリ(1781-1858)に依頼し、「魔王」を作品1として、「糸を紡ぐグレートヒェン」を作品2として、内輪向けに出版させます。またケルントナートーア劇場では、フォーグルが「魔王」を歌い、アンコールされもう一度歌うことに。このような経緯で、ディアベリ社から歌曲の楽譜がまとまって出版されることになりました。自信を付けたシューベルトは、次の大作オペラ「アルフォンソとエストレッラ」の作曲にいそしみます。しかし、ウィーンの劇場側の事情としては、望外の大作を上演する予定はなく、他の都市でも上演拒否にあい、こうしてまたお蔵入りの作品が生まれてしまいました。
1822年には、ベートーヴェンカール・マリア・フォン・ウェーバー(1786-1826)と知り合い、ウェーバーに「アルフォンソとエストレッラ」のドレスデン上演の依頼を行い、好感触を得ます。またこの年は、ミサ曲第5番「未完成交響曲」と呼ばれることになる、交響曲の一部が作曲されます。このミサ曲は、宮廷との関係を結ぶことを狙ったシューベルトが、皇帝か皇后に献呈しようと考えたものでした。しかし「皇帝の気に入る作品ではない」と一蹴され、この話はなくなります。当時は解りやすくて演奏しやすいミサ曲が好まれており、シューベルトの凝った和声「変イ長調」という調性は、敬遠されたのでしょうね。この年ケルントナートーア劇場からオペラ「フィエラブラス」の作曲依頼が舞い込みます。
机上の詩集のイラスト
1823年、最初の歌曲集である「美しき水車小屋の娘」が作曲されます。これは、当時の歌曲の演奏スタイルから大きく逸脱するものでした。出版も三回に分けて行われ、全曲通して演奏されたのは、シューベルトの死後約30年待たなければなりませんでした。このヴィルヘルム・ミュラー(1794-1827)の詩集に作曲したのは、本当に偶然だったようです。ある日友人宅を訊ねると、その友人は留守で、机上にミュラーの「旅のヴァルトホルン吹きの異稿からの詩集」が置いてあるのを見つけたシューベルトは、何気なくパラパラとページをめくっているうちに楽想が浮かび、友人の帰りも待たず詩集を持ち帰ったとか。このころ、梅毒の症状が現れ、健康状態はかなり悪かったようです。ケルントナートーア劇場は「フィエラブラス」と同時期にウェーバーに依頼していた「オイリアンテ」の初演を行います。その指揮にウィーンにやって来たウェーバーは、「オイリアンテ」の感想をシューベルトに求めます。素直なシューベルトは「魔弾の射手の方が好き」と答えてしまったので、気分を害したウェーバーは、頼まれていた「アルフォンソとエストレッラ」の上演の約束はなかったことにしてしまいます。「オイリアンテ」ですが、シューベルトと同じ感想を聴衆が持ったようで、あまり長続きしませんでした。同じような路線のオペラを上演して失敗してはかなわない劇場は、「フィエラブラス」の上演をなかったことにしてしまいます。この年作曲したジングシュピール「陰謀者(家庭争議)」は、「陰謀」という名前のせいで検閲に引っ掛かり、上演されませんでした。オペラ「リューディガー」は未完に終わります。
1824年には、弦楽四重奏曲の名曲「ロザムンデ」「死の乙女」が作曲され、開発されたばかりの「アルペジョーネ(チェロに似た6本の弦を持った弦楽器)」のためのソナタを作曲しています。
1827年には、二つ目の歌曲集である「冬の旅」が作曲されています。最初の一音から凍てつく荒野が目に浮かぶようで、詩の内容も身につまされます。健康状態もあまりよくなかったシューベルトが、どんな気持ちで作曲していたのか、気になるところです。この年、心の拠りどころでもあったベートーヴェンが亡くなります。シューベルトは、葬列に参加し、その後友人たちと亡き楽聖を偲んで集まり、「この中で次に死ぬ者に乾杯!」と言い献杯したそうです。友人たちは一様に不吉なものを感じていたとか。それは現実的なものになりました。
1828年、ベートーヴェンが亡くなってちょうど1年目の3月26日楽友協会において自作の演奏会を開きます。興行的に満足のいく結果となり、懐も潤いますが、直後に行われたヴァイオリンの鬼才ニコロ・パガニーニ(1782-1840)フィーバーに圧されてしまいました。病気にもめげず研鑽意欲が強かったシューベルトは、ジーモン・ゼヒター(1788-1867)のもとでのレッスンを希望し門をたたきます。病魔のため実際にレッスンを受けたかは記録がありませんが、夢にもその年のうちに自分が死ぬとは思っていなかったのでしょうね。夏には歌曲の作曲にいそしみ、これも偶然の産物であるルートヴィヒ・レルシュタープ(1799-1860)の詩集に作曲し、後にレルシュタープを驚かせることになります(これについては、こちらのブログ記事をご覧下さい:https://www.suac.ac.jp/opera/blog/2022/06/00149/)。しかし11月には体力も落ち、1828年11月19日、兄フェルディナントに看取られて31歳の生涯と閉じました。存命だった父フランツ・テオドールの気持ちはいかばかりだったでしょう。
シューベルトの生前の希望により、墓はヴェーリンガー墓地にあるベートーヴェンの墓の隣に設けられました。ウィーン中央墓地が開かれ、1888年に音楽家の墓の記念地区が設けられると、揃って移されることになりました。その後ヴェーリンガー墓地はヴェーリンガー公園として整備されますが、二人の墓石はそのまま残されて現在に至っています。
ヴェーリンガー墓地にある元の墓石の写真
ヴェーリンガー墓地にある元の墓石
元のベートーヴェンの墓石の写真
元のベートーヴェンの墓石
現在のシューベルトの墓石の写真
現在のシューベルトの墓石
ベートーヴェンの墓石(左)モーツァルトの記念碑(中央)シューベルトの墓石(右)
ベートーヴェンの墓石(左)
モーツァルトの記念碑(中央)
シューベルトの墓石(右)

豆知識「オットー・エーリヒ・ドイチュ

シューベルトの作品は、他の作曲家のように「作品○○番(op.〇〇)」と呼ばれることは稀です。その代わり「ドイチュ番号○○〇番(D 〇〇〇)」と呼ばれることが多いです。音楽学者のオットー・エーリヒ・ドイチュ(1883-1967)が、シューベルトの作品を、ほぼ作曲した順番に並べ整理し、番号付けを行いました。前に述べたように「魔王」は「作品1番(op.1)」として出版されましたが、「魔王 作品1」として紹介されることは現在ほとんどありません。もっぱら「魔王 D 328」と紹介されます。ドイチュはユダヤ人だったため、第二次世界大戦中から戦後にかけてイギリスに亡命。シューベルトの作品目録も英語で1951年に刊行されています。1952年にはウィーンに戻り、ウィーンで亡くなりました。ウィーン中央墓地には、ドイチュのお墓があり、娘のディッタと眠っています。
Otto Erich Deutsch (1883–1967)
Unknown authorUnknown author (The photographer is not mentioned in the source.),
Public domain, via Wikimedia Commons

オットー・エーリヒ・ドイチュ
(1883-1967)
オットー・エーリヒ・ドイチュの墓
オットー・エーリヒ・ドイチュの墓
兄フェルディナントの作品も聴くことができます。
フェルディナントのCD

シューベルトのオペラ

シューベルトのオペラ
これまで述べてきたように、シューベルトは何度となくオペラやジングシュピールなどの舞台作品を作曲しています。表には、現在知られているオペラとジングシュピールのみを記しました。これに加え「キプロスの女王ロザムンデ」など劇付随音楽も作曲しているのでその数は若干増えます。しかし16作品中完成したのは半数の8作品のみ。しかし、8作品というのは決して少ない数ではありません。かのプッチーニですら、65歳の生涯で12作品(3部作を1つとすると10作品)。単純に比較はできませんが、シューベルトがもっと長生きしたら、オペラ作曲家として知られるようになったかもしれませんね。
比較的手に入りやすいシューベルトのオペラの録音を紹介します。
4年間の哨兵勤務 D 190
4年間の哨兵勤務 D 190
サラマンカの友人たち D 326​
サラマンカの友人たち D 326
双子の兄弟 D 647
双子の兄弟 D 647
アルフォンソとエストレッラ D 732​
アルフォンソとエストレッラ D 732
陰謀者(家庭争議) D 787
陰謀者(家庭争議) D 787
陰謀者(家庭争議) D 787 ~(2)
フィエラブラス D 796
フィエラブラス D 796
陰謀者(家庭争議)のCDの1つは大阪音楽大学に併設されている、「カレッジ・オペラハウス」での収録です。このオペラハウスは、意欲的なオペラ公演を行っており、先生も何度か通いました。このことはまたお話しします。せっかくの日本版のCDなので、対訳が欲しいですね。なお、このオペラの序曲については、作曲されていないというのが通説ですが、序曲の収録があります。これについても説明が欲しいところです。
シェリル・ステューダー
シェリル・ステューダー
(審査委員)
フィエラブラスは、アン・デア・ウィーン劇場での収録。クラウディオ・アバド(1933-2014)の指揮で、これまでさんざんな目に遭ったこのオペラが華々しく蘇った瞬間でした。第9回審査委員のシェリル・ステューダーの名前も見えますね。