~今月の作曲家~「モンテヴェルディ」(2023年5月)

【ふじやまのぼる先生の作曲家紹介(17)】

モンテヴェルディ

オペラ黎明期に活躍した作曲家、モンテヴェルディ。この頃のオペラって、あまり接する機会がないのが現状です。少しだけ、ひも解いてみましょう。
Claudio Monteverdi, engraved portrait from 'Fiori poetici' 1644 - Beinecke Rare Book Library (adjusted)

Beinecke Rare Book & Manuscript Library, Public domain, via Wikimedia Commons
クラウディオ・モンテヴェルディ
(1567-1643)
クラウディオ・ジョヴァンニ・アントニオ・モンテヴェルディは、1567年5月15日に洗礼を受けました。残念ながら正確な誕生日はわかっていないようです。生まれは、イタリアのクレモナでした。ジブリ「耳をすませば」天沢聖司クンが、ヴァイオリンの修行に行く街としても知られています。
バルダッサーレ薬屋で、クラウディオは、最初の妻マッダレーナとの間に生まれた最初の子どもでした。弟のジュリオ・チェーザレ(1573-1630/31)も音楽家として活躍します。
クレモナ大聖堂の楽長マルカントニオ・インジェニェーリ(1547-1592)のもとで学び、志学の年にはヴェネツィアで最初の作品「3声のモテット集」が出版されています。また、翌年には「マドリガーレ集」ブレシアで出版されています。このことから、クレモナ内外で注目を集めていたことがうかがえます。
クレモナ内外との交流をつてに、定職を求めて活動します。そして1590年頃、マントヴァ公国ゴンザーガ公爵ヴィンチェンツォ1世(1562-1612)の宮廷に、歌手およびヴィオラ・ダ・ガンバ奏者として仕えることになります。弟も同じくマントヴァの宮廷に音楽家として仕えます。

豆知識「ヴィオラ・ダ・ガンバ」

ヴィオラ・ダ・ガンバ(viola da gamba)とは、「足のヴィオラ」という意味です。現在、一般に知られているヴィオラは、ヴァイオリンと同じく肩に楽器をのせて演奏しますが、ヴィオラ・ダ・ガンバは、チェロのように足の間に挟んで演奏します。「耳をすませば」では、聖司のおじいさん西司朗が演奏しています。写真は、浜松の楽器博物館に展示されているヴィオラ・ダ・ガンバです。弦の数は、チェロが4本、ヴィオラ・ダ・ガンバは6本、ギターのように「フレット」が付いています。
ヴィオラ・ダ・ガンバ
(浜松市楽器博物館所蔵)
ヴィオラ・ダ・ガンバ
1602年には宮廷楽長となり、その間多くの「マドリガーレ集」を出版しています。「マドリガーレ」とは、自由な詩を使い、その詩の抑揚に合わせたメロディーが特徴の合唱曲を指します。モンテヴェルディは、マドリガーレの第一人者として知られ、宗教的な内容のものも、世俗的な内容ものも作曲しています。モンテヴェルディの作曲様式は、当時の常識より相当進歩的であったため、楽術的な論争が巻き起こります。その結果、出版される楽譜の売れ行きも良かったようです。
以前ニコラウス・アーノンクール(1929-2016)の指揮するモンテヴェルディのコンサートに行きましたが、初めて目にするかつて使われていた形式の楽器に目を奪われ、粒ぞろいの歌手、特に男性アルト(カウンターテナー)のデイヴィッド・ダニエルズの技術の高さ、何とも言えない美意識があふれた曲の数々、そして何と言ってもアーノンクールの表現力と統率力に圧倒された記憶があります。後からプログラムをよく見ると、「マドリガーレ」だけではなく、後述する「タンクレディとクロリンダの戦い」や、「ポッペーアの戴冠」「僕は感じる」、その他「アリアンナの嘆き」など、有名どころが並んでいることに改めて驚きました。もっとしっかり勉強してからコンサートに行けばよかったと悔やまれます。
プログラム画像
ついに1607年、最初のオペラ「オルフェオ」を初演します。この時の経緯は、下記ブログに書きましたのでご参照いただければ嬉しいです。
「最初の立役者モンテヴェルディ」(オペラコンクールブログ「トリッチ・トラッチ」より)
https://www.suac.ac.jp/opera/blog/2021/04/00035/
この「オルフェオ」ですが、評判がよく、生まれ故郷のクレモナや、ヴィンチェンツォ1世がオペラを観てきたフィレンツェでも上演されたようです。1609年1615年には楽譜も出版されました。1609年に出版された楽譜の凄いところは、今では当たり前のことですが、「オルフェオ」で演奏されるべき楽器が明記されていたことでした。このことが、後年重要な意味を持ってきます。モンテヴェルディの生前に出版されたオペラの楽譜は、この1曲のみでした。この頃は「オペラ」という言葉はまだなく、「音楽による寓話(favola in musica)」と呼ばれていたそうです。
モンテヴェルディのオペラ以外の作品でいちばん有名なものは「聖母マリアの夕べの祈り」でしょう。マントヴァで書かれたこの作品は、1610年にヴェネツィアで出版されています。独唱、合唱、オーケストラを伴う90分の大曲です。この時代にこのような作品が残されたということは驚愕に値します。
CD1
1612年にヴィンチェンツォ1世が世を去り、あとを継いだフランチェスコ4世(1586-1612)は、モンテヴェルディ兄弟を解雇します。モンテヴェルディが、仕方なく1年間故郷のクレモナで過ごし、その後ヴェネツィアへ行き、サン・マルコ大聖堂の楽長に就任したことは、ブログに書きましたね。その後の活躍について書いてみます。
サン・マルコ大聖堂の前楽長は病気がちで、合唱や器楽奏者からなる聖歌隊は、壊滅の危機にありました。モンテヴェルディの最初の仕事は、これらを立て直すことでした。また新しく雇った音楽家の中に、フランチェスコ・カヴァッリ(1602-1676)がいました。カヴァッリは、生涯にわたりサン・マルコ大聖堂とかかわりを持ち、モンテヴェルディとも関係が続きました。
ヴェネツィアという都市は、マントヴァやフィレンツェのように王侯貴族が治めるのではなく、共和制を敷いていた都市国家でした。大聖堂のための仕事の他、総督(ドージェ[Doge])のための音楽や、他の教会のための音楽、またパトロンのための音楽など、大聖堂からの収入の他、多くを望む事ができました。モンテヴェルディのパトロンの一人に、ジローラモ・モチェニーゴがいました。モチェニーゴ家は、ヴェネツィア総督を出すほどの有力な家系で、彼の宮殿では1624年「タンクレディとクロリンダの戦い」が初演されています。
一方マントヴァでは、あとを継いだフランチェスコ4世がその年のうちに亡くなり、フランチェスコ4世の弟で、枢機卿となっていたフェルディナンド(1587-1626)が還俗してその後を継ぎました。フェルディナンドは、モンテヴェルディに宮廷楽長への復帰を打診しますが、彼は丁重に断ります。その代わり、いくつかの作品をマントヴァのために作曲しました。残念ながら、その作品は現存しないようです。
交易都市でもあったヴェネツィアには、外国の商用者や観光客が数多く訪れており、彼らがモンテヴェルディの音楽を聴くことも数多くあったといいます。また外交的な儀礼のために作曲することも多かったとか。また1630年代には、ペストの終焉を願ったミサ曲を作曲しています。しかし60歳を超え、そろそろ引退を考えるようになり、司祭としての叙任を受けています。
そんな1637年、ヴェネツィアに初の公共オペラハウスであるサン・カッシアーノ劇場がオープンします。今までは、王侯貴族の専有物的存在であったオペラが、お金を払えば貴賤を問わず鑑賞することができるのです。モンテヴェルディはこの劇場のためにオペラを作曲したのは言うまでもありません。この後、サンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ劇場サン・モイゼ劇場など、劇場が林立する都市となりました。この頃作曲されたモンテヴェルディのオペラでは、「ウリッセの帰還」「ポッペーアの戴冠」が現存しています。そして、1643年11月29日にヴェネツィアで76歳の生涯を閉じます。

その後のモンテヴェルディの忘却と受容

モンテヴェルディの死後、その作品は忘れられることになります。忘却後250年の時を経て、19世紀後期に徐々に再び取り上げられるようになります。最初は歴史的な興味好奇心の対象でした。1881年、ドイツの音楽学者のロベルト・アイトナー(1832- 1905)が、若干の短縮を加えていますが、いま私たちが演奏できるような楽譜を出版します。その後、フランスでは、ヴァンサン・ダンディ(1851-1931)が編纂し、1904年に演奏会形式で上演しています。イタリアでは、ジャコモ・ベンヴェヌーティ(1885-1943)の編纂により、1934年12月27日ローマ歌劇場で上演されました。ほとんど同じ時期に、オットリーノ・レスピーギ(1879-1936)の編纂により、1935年にミラノ・スカラ座で上演されました。レスピーギは、「シチリアーナ」で知られるように、ルネサンス期からバロック期の音楽を研究していました。ドイツでは、カール・オルフ(1895-1982)の編纂による上演が、1925年にマンハイムで行われました。これらの上演は、作品を啓蒙するという意味では大きな意義があったといえますが、先品そのものを伝えるというよりは、編纂者の嗜好が大いに反映されたものであったともいえます。
体系立ててモンテヴェルディが論じられるのは、第二次世界大戦を経てからでしょう。パウル・ヒンデミット(1895-1963)が、「オルフェオ」を編纂し演奏した時、奏者の中に、チェロを担当した前出のアーノンクールがいました。アーノンクールは、1953年に「コンツェントゥス・ムジクス・ウィーン」という、「作曲された当時の楽器を使ってその楽曲を演奏する」いわゆる「古楽器(ピリオド楽器)」のオーケストラを組織します。また、ジョン・エリオット・ガーディナーは、モンテヴェルディの名を冠し、1964年に「モンテヴェルディ合唱団」を、1968年に「モンテヴェルディ管弦楽団」を組織します。「モンテヴェルディ管弦楽団」は1978年、「イングリッシュ・バロック・ソロイスツ」として発展を遂げます。先生の好きな古楽器オーケストラの1つです。他にも様々な古楽器オーケストラによって、モンテヴェルディは演奏されるようになりました。
Nikolaus Harnoncourt (1980)
Marcel Antonisse / Anefo, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons
ニコラウス・アーノンクール
(1929-2016)
モンテヴェルディの残された本格的なオペラは、「オルフェオ」、「ウリッセの帰郷」、「ポッペーアの戴冠」が知られています。「ポッペーアの戴冠」は後で詳しく説明します。ここでは、「オルフェオ」と「ウリッセの帰還」の音源を紹介します。

参考CD

「​オルフェオ」
参考CD(1)
ガーディナーの指揮で。
参考CD(1)
参考CD(2)
レスピーギの編曲によるオルフェオ。このCDは、レスピーギが編曲したよりも短縮されています。
参考CD(2)
参考CD(3)
ヒンデミットの編曲によるオルフェオ。この録音には、1954年6月ウィーン芸術週間の催しの1つとして、ウィーンコンツェルトハウスにて上演されたものです。前出のアーノンクールがチェロ奏者として参加しています。この上演を音楽評論家の吉田秀和(1913-2012)が鑑賞しており、彼の著書「音樂紀行」の中で、「モンテヴェルディが、今回の旅行でぼくが最も驚嘆した作曲家の一人」と述べていて、鑑賞した感想が事細かに書かれています。
 このCDの便利なところは、PDFで、「オルフェオ」の楽譜を見ることができるところです。さすが、ORF(オーストリア放送協会)発行のCDだけのことはあります。
参考CD(3)
「ウリッセの帰還」
アーノンクールの指揮で。
参考CD(4)
ハンス・ウェルナー・ヘンツェ(1926-2012)の編曲による「ウリッセの帰還」
参考CD(5)
今回は、「ポッペーアの戴冠」をご紹介します。人によっては、好きなオペラベスト3に入るようなオペラです。「オルフェオ」や「ウリッセの帰還」など、神話の世界の話ではなく、暴君ネロ(ここではネローネと呼ばれています)として知られるローマ皇帝の下世話な話なので、今でも通用する内容かもしれません。

モンテベルディのオペラ

「ポッペーアの戴冠」

あらすじ
紀元64年 ローマ
プロローグ
運命の女神美徳の女神が、どちらが人の役に立つか言い争っている。そこに愛の神(キューピッド)が、自分こそがこの世を治める偉大な神であり、私の指図で世の中が変わるのだという。
第1幕
ポッペーアの夫オットーネは、辺境の戦地での任務を終え家に帰ってくると、皇帝ネローネの兵がいるので、中にネローネがいることを察知し、妻の浮気に気付く。
家の中では帰ろうとするネローネポッペーアが引き留めている。皇后オッターヴィアと片を付けないと妻にはできないから、もう少し待つよう言い、また来るからとネローネは去る。
ポッペーアは、皇后になることを夢見るが、乳母のアルナルタから、オッターヴィアに気を付けるよう諭されるが聞く耳を持たない。アルナルタはアリア「あなたは狂っている」を歌い立ち去る。
宮殿では、オッターヴィアが夫の浮気を嘆いている。オッターヴィアの乳母は、「浮気には浮気で仕返しを」と言うが、オッターヴィアは貞節でありたいと涙を流す。哲学者でネローネの師でもあるセネカは彼女を慰める。
ネローネはセネカに、「オッターヴィアに子どもができないから離婚し、ポッペーアと結婚する」と告げる。セネカは「そんなことをしては人心が乱れる」と忠告するが、逆にネローネから宮殿から出ていくように言い渡される。
ネローネはポッペーアに、オッターヴィアと離婚して、ポッペーアを皇后にすると告げるが、ポッペーアはセネカの存在が気になってならない。そこで、セネカを陥れるような発言をするのでネローネは怒り、セネカに自殺を命じることにする。
バルコニーにいるポッペーアに向かい、オットーネが「夫は家に入れずに浮気相手は入れるのか」と問いかける。ポッペーアは「愛に神に見放されたあなたに用はない、私にも罪はない」と言い、家の中に入ってしまう。哀れに思ったオッターヴィアの侍女のドルジッラが、オットーネを慰める。
第2幕
自殺の命令がセネカに伝えられる。「死なないでください、セネカ!」と親しい仲間たちに引き止められるが、セネカは命令に従い、浴槽で血管を切って死ぬ。
小姓は、「僕は感じる」を歌い女官と戯れている。ネローネは、腹心のルカーノ(セネカの甥!)とセネカが死んだことを喜び、ポッペーアの美しさを讃える。
オッターヴィアはオットーネを脅し、女装してポッペーアを殺害するよう命じる。オットーネは、自分を慕っているドルジッラから服を借りて女装することにする。
ポッペーアは、セネカが死んだことで皇后への座が近付いたと喜ぶ。アルナルタの子守歌でうとうとするポッペーアを、オットーネが殺そうと近付く。しかし、愛の神がポッペーアを起こし、難を逃れる。オットーネは逃げ去り、アルナルタが後を追いかける。
第3幕
アルナルタが捕まえたのは、何とドルジッラだった。ポッペーア殺害未遂の罪でネローネの前に連れてこられたドルジッラは、愛するオットーネをかばい、自分がやったと言う。そこにオットーネが現れ、自分こそが殺害の真犯人であることを告げる。ネローネは、二人を追放処分にする。オッターヴィアは離縁され、小舟に乗せられて海に流されることになる。
オッターヴィアは深く悲しみ、「さらば、ローマよ!」を歌い、悲嘆のうちにローマを去る。
アルナルタは「今日ポッペーアはローマの皇后におなりになる」と、自分も皇后付きの乳母になると歌う。
ポッペーアはめでたく皇后となり、ネローネと愛の二重唱を歌う。執政官や護民官、愛の神も祝福し、幸福のうちに幕となる。

参考CD

参考CD(1)
指揮:ジョン・エリオット・ガーディナー
ポッペーア:シルヴィア・マクネアー
ネローネ:ダーナ・ハンチャード 他 (1993年録音)
参考CD(6)
参考CD(2)
ちょっと変わり種
指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン
ポッペーア:セーナ・ユリナッチ
ネローネ:ゲルハルト・シュトルツェ 他 (1963年録音)
カラヤンがウィーン国立歌劇場の総監督だった時代の、それこそ泣く子も黙るマエストロ・カラヤンだった時の録音です。もちろん、モンテヴェルディのオリジナルではなく、エーリヒ・クラーク(1898—1975)の編纂によるものでした。ウィーン国立歌劇場で、始めてモンテヴェルディのオペラが上演された瞬間の録音です。知らずに聞くと、17世紀に書かれたオペラではないような印象を受けます。言い方が適当かはわかりませんが、ガーディナーの録音が精進料理としたら、カラヤンの演奏はフルコースでしょうか。どちらにも良さがあるように、どちらの演奏も楽しめます。昼メロも真っ青な内容のオペラですからね。
参考CD(7)

豆知識「『ポッペーアの戴冠』の一節」

モンテヴェルディの楽譜
以前ご紹介した、リヒャルト・シュトラウス(1864-1949)のオペラ「無口な女」。この中に、「ポッペーアの戴冠」の一節が出てきます。無口な女と信じて結婚した老人でしたが、本当はうるさい女だった。その女が歌のレッスンを受ける。その曲目に、「僕は感じる」の一節が、リヒャルト・シュトラウス風にアレンジされて出てきます。
楽譜1
R.シュトラウスの「無口な女」の楽譜 最初の4音は同じような動きですが、次からはアレンジされたメロディーとなっています。
楽譜2
楽譜3
この部分は、セネカが死んだ後、本筋に戻る前に、小姓と女官が戯れ回るという、場面転換の意味を込めたコミカルな場面です。カラヤンの指揮した公演では、この部分が議論(非難)の的になり、カラヤンが指揮する日には、この場面は演奏されていますが、他の指揮者の公演の時は、ばっさりカットされたとのこと。前記のCDでは、ちゃんと聴くことができます。