~今月の作曲家~「ヤナーチェク」(2023年7月)その1

【ふじやまのぼる先生の作曲家紹介(19)】

ヤナーチェク

レオシュ・ヤナーチェク(Leoš Janáček)は、1854年7月3日に、モラヴィア北部のフクヴァルディで生まれました。モラヴィアとは、現在チェコ共和国の東部に位置します。そもそもモラヴィアは英語で、チェコ語では「モラヴァ」、ドイツ語では「メーレン」と呼ばれます。当時はオーストリア帝国の一部で、中心都市はブルノでした。
Leos Janacek relief
Michal Maňas, CC BY 3.0, via Wikimedia Commons
レオシュ・ヤナーチェク
(1854-1893)​のレリーフ
レオシュは、教師だった父イルジー(1815–1866)と、母アマリア(1819–1884)の10番目の子供(14人兄弟)でした。イルジーは校長まで務めた人物で、教師とオルガニストを兼任する「カントル」の家系の出で、イルジーの父も同じ立場でした。イルジーは、レオシュの音楽的な才能に気付きます。
そこでイルジーは、1865年にレオシュをブルノにあるアウグスティヌス会の聖トーマス修道院に寄宿させ、聖歌隊員としてパヴェル・クシーシュコフスキー(1820-1885)のもとで音楽の勉強をさせることにします。クシーシュコフスキーは、イルジーのもとで音楽の勉強をしたという間柄にありました。合唱やオルガンを学んだレオシュは、気まぐれな生徒という評価もありましたが、クシーシュコフスキーは、プラハのオルガン学校で学ぶよう勧めます。

豆知識「ヤナーチェクが寄宿した修道院」

ヤナーチェクが寄宿したアウグスティヌス会の聖トーマス修道院。ここは現在別の名前で呼ばれることがあります。それは、メンデル修道院。遺伝の法則を発見したあのグレゴール・ヨハン・メンデル(1822-1884)です。彼の本業は、修道士や司祭で、この修道院の庭で、エンドウ豆の交配実験を行ったといいます。修道院内には、メンデルに関する博物館もあるようですよ。
翌1866年、父イルジーが亡くなります。叔父のヤンが後見となり、1869年にはブルノの「ドイツ人中学校」を卒業します。その後ブルノの師範学校で学びます。
1872年、恩師のクシーシュコフスキーは、オロモウツの大聖堂に栄転となります。その代理として、ヤナーチェクはアウグスティヌス会の聖トーマス修道院の指揮者に任命されます。修道院の他「スヴァトプルク」という社会人のための男声合唱団を指導するようになります。また、合唱団のための曲も作曲します。
1874年、かねてからの勧めもあったプラハのオルガン学校で1年間学びます。プラハでは、アントニン・ドヴォルジャーク(1841-1904)と親交を結んだり、ロシアを中心とした「スラヴ民族」に根差した「親ロシア」的な考えに傾倒したりしました。後で紹介するオペラに、ロシア文学原作が多いのもこのあたりの影響があるのでしょう。
ブルノに戻ると、新たに「ブルノ・ベセダ音楽協会」に属する男声合唱やオーケストラの指導も始め、後に混声合唱に改編します。この合唱団を指揮しモーツァルト「レクイエム」や、ベートーヴェン「ミサ・ソレムニス」を演奏しました。また、ドヴォルジャークの作品をブルノに紹介しています。こうして、ブルノでの音楽的な地位を着実に高めていくのでした。また、この頃師範学校の先輩の娘ズデンカ・ショルゾヴァー(1865-1938)と交際していました。
しかし、同じところに留まるのを良しとしない性格ゆえか、1879年にライプツィヒ音楽院に留学します。ズデンカに望郷の手紙を書いたり、「ズデンカ変奏曲」と呼ばれるピアノ曲を作曲したりしています。その後ウィーンでも勉学に励みますが、満足いくものは得られず、「もう学ぶべきものはない」と思うようになり、ブルノへと帰還します。
ブルノへ戻るとズデンカと婚約し、1881年7月13日に結婚しました。27歳と15歳の結婚でした。翌1882年には娘オルガ(1882-1903)が生まれます。母アマリアと同居したいヤナーチェクに対し、ズデンカは幼いオルガを連れて実家に戻ってしまい、別居生活が2年ほど続きました。
1881年、ヤナーチェクは自身のオルガン学校を創設し、1882年から授業が開始されます。ヤナーチェクは校長に推され、1919年に学校が国有化されるまでその職にありました。教育方針としてはプラハのオルガン学校のやり方を踏襲していました。現在ヤナーチェク音楽院としてその歴史は続いています。
1880年代のヤナーチェクは、破竹の勢いで色々な団体の長を務めたり、音楽団体の指導をしたりしています。また、新たな教育機関の創設にもかかわっています。また、1884年には「音楽新聞(フデブニー・リスティ)」を創刊、編集長を務めます。同じ頃、ブルノに「チェコ仮劇場」が創設され、そこでの上演のため、1887年に最初のオペラ「シャールカ」が作曲されます。しかし、作詞者から詞の利用許可が下りず、完成は作詞者の死後の1901年、さらに初演は1925年になってしまいました。
この頃、ブルノのギムナジウムの校長であった民俗学者フランティシェク・バルトシュ(1837-1906)と知り合い、モラヴィアの民族音楽の収集に当たることになります。また、モラヴィアの民族音楽の編曲も手掛け、現在皆さんがお聴きになるヤナーチェクの音楽に独特の語法があるのは、この辺りからきているのかと思われます。
ズデンカとの別居生活が一時解消した1888年、息子のウラディーミルが生まれますが、2年後にしょう紅熱で亡くなります。子どもが2人とも「ロシア名」なのは、「親ロシア」的な考え方に基づくものなのでしょう。息子の死をきっかけに、ズデンカとの結婚生活は完全に破綻します。しかし離婚や別居はされませんでした。1891年には、2作目のオペラ「物語の始まり」が完成されます。
1903年、ヤナーチェクの名を高めたオペラ「イェヌーファ」が完成されます。チフスにかかった娘のオルガは、死ぬ前にイェヌーファを聴かせてほしいと頼み、全曲を聴き終えた5日後、20歳の若さで世を去ります。後で詳しくお話ししますが、イェヌーファは子どもの死を扱っています。オルガの死は、ヤナーチェクを新しいオペラの創作へと駆り立て、第4作「運命」が完成されます。
「イェヌーファ」は、1904年1月21日にブルノの仮劇場で初演され、大成功を収めます。ヤナーチェクの本来の希望はプラハでの上演(初演)でしたが、その希望はなかなかかなえられませんでした。ブルノでは有名人でも、プラハでの認識は作曲家ではなく、作曲もする民俗学者程度のものだったと言われています。
1905年10月1日、プラハの街頭で、ブルノのチェコ語大学への支持を訴えるデモが行われた最中、1人の参加者が鎮圧に動員された軍隊に殺されるという痛ましい事件がありました。お話しした通り当時ブルノはオーストリア帝国の一部で、公用語はドイツ語でした。しかしその帝国は斜陽の一途をたどっており、また各地のアイデンティティー主張も高まりを見せていました。そんな中でのチェコ語で教育を行う大学建設です。為政者はナーヴァスになり、武力鎮圧に至ったというわけです。ヤナーチェクは激しく怒り、3楽章からなるピアノソナタ「1905年10月1日」を作曲します。公開の直前、第3楽章は破棄され、最初の2つの楽章のみが演奏されました。演奏が済むと、ヤナーチェクは楽譜をヴルタヴァ川に投げ捨てましたが、演奏者が写譜を持っていたため、ヤナーチェクの許可を得た上で出版され、後世に残る作品となりました。その楽譜には、ヤナーチェクの言葉が綴られています。
ブルノのペセダ音楽協会の
 白い大理石の階段…
単純労働者のフランティシェーク・パヴリークは
 血まみれで倒れている…
彼はただ大学のための請願に来ただけなのに…
 残酷な殺人者に殺されたのだ
2つの楽章は、「予感」「死」と名付けられています。本来であれば、「葬送行進曲」が続いていました。先生は、別の作曲家の同じような作品をレッスンで弾くために下記のCDを購入したのですが、同じCDに収められているヤナーチェクの作品の方に興味が移り、魂の叫びが聞こえてきそうな作品を、涙をこらえながら練習したのを覚えています。
CD1
1908年から「ブロウチェク氏の旅行」という2部から成るオペラを作曲、1つは「月への旅行」もう1つは「15世紀への旅行」です。今でいうスペーストラベルタイムトラベル。SFの世界ですね。こういった設定のオペラは、今までには多くなかったかと思います。ハイドンに「月の世界」というオペラがありますね。
1916年5月26日、ついに「イェヌーファ」プラハ国民劇場で上演されます。指揮はカレル・コヴァジョヴィツ(1862–1920)が行いました。この人物、長らく「イェヌーファ」のプラハ上演を拒んでいた人物であります。というのも、かつて、自身の作曲したオペラを、ヤナーチェクが「音楽新聞(フデブニー・リスティ)」紙上で、けちょんけちょんにけなしたということを長年恨みに思っていたとか。仲介者の助力があり、ようやくの上演となったのです。しかしただでは起きないコヴァジョヴィツ。作品を勝手に改定し、その改定をヤナーチェクに認めさせます。それが功を奏したのか、結果として、プラハでも大成功を収めます。「イェヌーファ」はその後、ウィーンやケルンなどの国外でも上演され、ヤナーチェクの名声は高まるばかりでした。しかしこれらは、コヴァジョヴィツによる改訂版での上演で、長らく改訂版での上演が続くことになります。「イェヌーファ」は、モラヴィアの方言が使われていたり、ヤナーチェク独特の音楽語法がちりばめられていたりするため、「良い言い方をすれば」ユニヴァーサルデザイン化されてしまいました。出版もコヴァジョヴィツ版でされました。
1917年にヤナーチェクは、運命の女性と出会うことになります。それが、カミラ・シュテスロヴァー(1891–1935)でした。彼女には、夫と2人の子どもがあり、38歳も年下でした。しかし彼の創作の泉は、彼女によってその死まで枯渇することはなかったのです。その年から作曲された連作歌曲「消えた男の日記」は、愛するジプシーの娘と村から駆け落ちしてしまう若い農夫の話ですが、カミラとヤナーチェクに置き換えることもできましょう。
CD2
第1次世界大戦が終わり、それまでのヨーロッパの情勢ががらりと変わります。1919年、オーストリア=ハンガリー帝国から独立を勝ち取り、「チェコスロヴァキア共和国」が成立します。ヤナーチェクが校長を務めていたブルノのオルガン学校は国立化されますが、校長職を続けることはできませんでした。
その後、3つのオペラ「カーチャ・カバノヴァー」「利口な女狐の物語」「マクロプロス家の事」が続けざまに作曲されます。これらのオペラは、自身が執筆した歌詞に作曲するというもので、言葉と音楽とが密着した音楽になっていますので、他の言語に訳して上演すると本来のフォルムが崩れてしまうきらいがあります。
1926年、もっとも有名な管弦楽曲「シンフォニエッタ」が作曲されます。トランペット9本をはじめとするバンダ(オーケストラの本体とは別に演奏される小規模な楽器群)が印象的な作品で、ある体育行事でのファンファーレがもとになっています。「シンフォニエッタ」は、某日本人人気作家の小説にも登場し、重要な役割を担っています。先生は未読なので、その価値は解りません。
CD3
最後のオペラ「死者の家から」も、自身の台本によるオペラで、フョードル・ドストエフスキー(1821-1881)の小説が原作のオペラです。また、2作ある弦楽四重奏曲ですが、第1番は、レフ・トルストイ(1828-1910)の小説「クロイツェル・ソナタ」にインスピレーションを得て作曲されています。生涯を通して、親ロシアを貫いたのですね。しかし弦楽四重奏曲第2番は「ないしょの手紙」と題され、カミラとの文通が創作の源となっています。先生が、コンサートで初めて聴いた弦楽四重奏曲の1つが、この「ないしょの手紙」でした。まだヤナーチェクという作曲家を良く知らない高校生の耳には、ずいぶん奇異な音楽に聞こえたのを覚えています。
CD4
死は突然やってきます。1928年7月、カミラと夫、カミラの11歳の子どもを、生まれ故郷のフクヴァルディに招待します。その際、息子が行方不明になったと勘違いしたヤナーチェクは、森の中を探し回り、風邪をひいてしまいます。体調の悪化をなかなか言い出せなかったため、風邪こじらせて肺炎となり、8月12日にオストラヴァで亡くなります。74歳でした。盛大な葬儀が執り行われ、「利口な女狐の物語」の最終シーンが演奏されたと言います。彼は、ブルノの中央墓地の名誉地区に埋葬されています。
晩年に奥さん以外の創作の泉を見つけた作曲家は意外と多いですね。