【ふじやまのぼる先生の作曲家紹介(25)】
アイネム
アイネムって誰?という人が多いと思います。クラシックをよく聴く人でも、「アイネムを愛聴しています」なんて言う人は、先生くらいの変人でない限りいないと思いますが、あえてご紹介いたしますね。
ゴットフリート・フォン・アイネムは、1918年1月24日にスイスのベルンに三人兄弟の次男として生まれました。フォン・アイネム家は、ニーダーザクセン発祥の貴族として知られており、父ヴィルヘルムは、オーストリアの軍人でかなり厳しい保守的な家庭だったと言います。しかし、実のお父さんは別人で、ハンガリーの貴族だったとのこと。お母さんのゲルタ・ルイーゼ(1889-1964)も軍人家庭の出身で、なかなか精力的な女性だったそうです。
1921年に、ドイツ北部シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州のマレンテ=グレムスミューレンに移住しました。両親は留守がちで、使用人に育てられ、6歳の時に初めてピアノを習いました。7歳の時にはすでに作曲家になりたいと思っていたようで、近郊のペルンで音楽教師のエドガー・ラプシュ(1892-1964)に師事します。
その後ラッツェブルクに移り、研鑽を積みます。ここではケーテ・キークブッシュ(旧姓シュロットフェルト)に師事し、彼女からは「アーティストとはどのようなものであるか」を示されたと言います。両親からは、ほったらかしのアイネムでしたが、楽譜や楽器など、大量に与えられたおかげで、作曲のインスピレーションの泉となったようです。
1937年、ウィーンで徴兵されます。しかし、ナチスの帝国音楽院で影響力のあった作曲家のヴェルナー・エック(1901-1983)の計らいで、「兵役不適合者」と分類され、戦争が終わるまで徴兵されることはありませんでした。その後ベルリンへ赴き、ベルリン国立歌劇場でコレペティトゥーアとして働きます。
1941年からは、作曲家のボリス・ブラッハー(1903-1975)に師事し、さらに研鑽を積みます。エックの勧めで書かれたバレエ「トゥーランドット姫」は、記念すべき「op.1(作品番号1)」が付され、ドレスデンのゼンパー・オーパーで初演されました。また、「op.2」のカプリッチョもベルリン・フィルで、さらに「op.4」の管弦楽のための協奏曲も、本拠地のオーケストラであるシュターツカペレ・ベルリンの演奏、ヘルベルト・フォン・カラヤン(1908-1989)の指揮で初演、いずれも好評を得ます。しかし、第二次世界大戦末期になると、ゲシュタポから目を付けられるようになり、一時期潜伏せざるを得なくなります。その後終戦。ベルリン開放を経験し、一時期は占領軍によって警察署長として任命されたこともあったようです。
カプリッチョ
ユージン・オーマンディ(1899-1985)が、バイエルン放送交響楽団を指揮したCD
ユージン・オーマンディ(1899-1985)が、バイエルン放送交響楽団を指揮したCD
管弦楽のための協奏曲
20世紀末にその当時のオーストリアの「新しい音楽」を集めたCD。アイネムの薫陶を受けたHKグルーバーの指揮で。同じCDで彼も、同名の曲を自作自演しています。
20世紀末にその当時のオーストリアの「新しい音楽」を集めたCD。アイネムの薫陶を受けたHKグルーバーの指揮で。同じCDで彼も、同名の曲を自作自演しています。
1946年、リアンネ・フォン・ビスマルクと結婚します。彼女はピアニストで、ブラッハーのレッスンを受けて始めた1941年に知り合ったようです。彼女との間には、政治家になったカスパー(1948-2021)が生まれています。
1946年からザルツブルク音楽祭の理事として働きます。彼の名前を全世界に広めたのは、1947年の音楽祭で初演されたオペラ「ダントンの死」でした。その年の11月、場所をウィーンに移しての再演が行われています。このオペラについては、後で詳しくお話ししますね。
「ダントンの死」の成功を受け、1953年には同じくザルツブルク音楽祭でフランツ・カフカ(1883-1924)原作のオペラ「審判」を初演し、こちらも好評を得ます。「ダントンの死」と同じく、その年の10月にウィーンでの再演が行われています。
「審判」ザルツブルクでの初演のライヴ録音
1960年、アメリカ・フィラデルフィア市の音楽アカデミーからの委嘱で、最初の交響曲である「フィラデルフィア交響曲」が作曲されました。とても明快で、これまでの作風を一転させたかのように見えますが、要所要所でアイネムが顔をのぞかせます。第2楽章は、リズムを強調した作風で、第3楽章は、ラテンの雰囲気が見られます。1961年にフィラデルフィア管弦楽団で初演される予定でしたが、どういうわけか実現せず、同年ウィーン・フィルによって初演されました。
フィラデルフィア交響曲
オーストリア生まれのフランツ・ウェルザー=メストの指揮、ウィーン・フィルの演奏で。
オーストリア生まれのフランツ・ウェルザー=メストの指揮、ウィーン・フィルの演奏で。
1962年、妻のリアンネが急死します。1963年から1972年まで、ウィーン国立音楽大学の作曲の教授を務めました。1964年には、ウィーンの劇作家ヨハン・ネストロイ(1801-1862)原作のオペラ「引き裂かれた者」が書かれます。このオペラの台本はブラッハーが手がけ、ハンブルク州立歌劇場で初演されました。
1966年に、オーストリアの作家ロッテ・イングリッシュ(1930-2022)と再婚します。二人とも、二度目の結婚でした。1971年には、スイスの劇作家フリードリヒ・デュレンマット(1921-1990)原作のオペラ「老婦人の訪問」が、ウィーン国立歌劇場で初演されました。このオペラの台本は、アイネムとデュレンマットが創り上げています。「老婦人の訪問」は、2022年に新国立劇場で演劇として上演されたのでご覧になった方もいるでしょう。原作は日本語にも訳されているので、ぜひお読みください。日本にも老婦人が訪問するような街があるかもしれません。初演では、老婦人をクリスタ・ルートヴィヒ(1928-2021)がとても上手く演じています。ホルスト・シュタイン(1928-2008)の指揮も素晴らしいです。
「老婦人の訪問」初演のライヴ録音
1976年には、ブラッハーとイングリッシュの共同台本で、フリードリヒ・フォン・シラー(1759-1805)原作のオペラ「たくらみと恋」が、ウィーン国立歌劇場で初演されました。ヴェルディの「ルイザ・ミラー」を以前紹介しましたが、同じ原作でも扱い方が大きく違います。アイネムの方が、どちらかというと原作に近い感じでしょうか。「老婦人の訪問」でもそうでしたが、登場歌手の豪華なこと!さすがウィーン国立歌劇場。審査委員としてお招きしたワルター・ベリー(1929-2000)やベルント・ヴァイクルのお名前も見えます。
「たくらみと恋」初演の配役表
1980年には、問題作であるオペラ「イエスの結婚」が初演されます。これは、聖書の言葉をもとに、イングリッシュが台本を執筆したオペラです。ケルンテンの夏音楽祭において、オシアッハ修道院付教会で初演されるはずでした。現代ミステリー劇という内容を心配した音楽祭運営側によって上演中止にされてしまいました。翌年のウィーン音楽祭のオープニングを飾るオペラとして上演が決まりますが、カトリック教会やなどからの反対運動が起こります。初演は、悪臭爆弾が投げつけられるなど、相当なスキャンダルになったようです。その後も上演はありましたが、評価をされるには至っていません。
1981年には「フニャディ・ラースロー」という曲を作曲しています。「オーケストラのための3つのギフト」という副題がついています。この曲は、1956年のハンガリー動乱からドイツに逃れてきた音楽家で結成されたオーケストラ「フィルハーモニア・フンガリカ」の25周年を祝うための曲でした。では、この「フニャディ・ラースロー」とは一体何でしょう?これは、アイネムの実のお父さんの名前の一部です。本名は、「ラースロー・マリア・ボナヴェンチュール・ペテル・フニャディ・フォン・ケテリー伯爵(Grafen László Mária Bonaventúra Péter Hunyady von Kéthely)」(1876-1927)と言いました。彼は、50歳の時アフリカで、荒れ狂ったライオンに襲われ命を落とします。ハンガリー貴族の父とハンガリーを起源とするオーケストラ。運命を感じたアイネムは、本当の父との決別の意味も込め作曲したと言います。
「フニャディ・ラースロー」のCD
1984年には「トゥリファント」というオペラが初演されています。これは、イングリッシュの台本によるおとぎ話で、オーストリアの伝統と結びついた象徴的なものでした。二十数名のオーケストラによる室内オペラで、歌劇場ではなく、ウィーンの「ロナッハー劇場」で初演されました。
「トゥリファント」初演のライヴ録音
晩年、アイネムはイングリッシュとともにウィーンの王宮内のアパートに住んでいました。そして1996年7月12日、ニーダーエスターライヒ州オーバーデュルンバッハで亡くなりました。
最後のオペラ「ルシファーの微笑み」は、彼の死後の1998年に初演されています。このオペラのもイングリッシュの台本です。
アイネムが日本で頻繁に上演されることはありません。しかし、2020年の1月には、「ダントンの死」組曲が日本初演、2023年3月には、フィラデルフィア交響曲の演奏がありました。いつの日か、アイネムのオペラが上演されることを願ってやみません。
長くなってしまいました。次回、アイネムの出世作「ダントンの死」について、お話いたしますね。