~今月の作曲家~「バルトーク」 (2024年3月)

【ふじやまのぼる先生の作曲家紹介(27)】

バルトーク

バルトーク・ベーラ・ヴィクトル・ヤーノシュ(Bartók Béla Viktor János)は1881年3月25日に、ナジセントミクローシュで生まれた作曲家、ピアニスト、民族音楽研究家です。ナジセントミクローシュは、当時オーストリア=ハンガリー帝国の中のハンガリー王国に属しており、現在ルーマニア領となっています。
Bartók Béla 1927
http://w3.rz-berlin.mpg.de/cmp/bartok_9.jpg, Public domain, via Wikimedia Commons
バルトーク・ベーラ・ヴィクトル・ヤーノシュ
(1881-1945)
 

豆知識「ハンガリー人の氏名」

日本人は、氏名を「苗字+名前」で書きますよね。先生も「ふじやま」が苗字で、「のぼる」が名前です。これ、ハンガリー人も同じなんです。ですから、「バルトーク」が苗字で、「ベーラ・ヴィクトル・ヤーノシュ」が名前です。日本人も、外国では「のぼる ふじやま」と名乗るように、ハンガリー以外だと「ベーラ・ヴィクトル・ヤーノシュ・バルトーク」となります。長いので「ベーラ・バルトーク」。
先生のイラスト
今回の登場人物はハンガリー系が多いので、苗字+名前の表記が多くなります。ご注意ください。
同名の父ベーラ(1855-1888)は、彼の父親が設立した農業学校の校長をしていました。バルトークはお父さんのことを「ピアノを弾き、小さな素人オーケストラに入れるくらいのチェロの腕前があり、作曲もたしなむ」人と評しています。彼は、町の音楽協会設立にも貢献しました。母パウラ・ヴォイト(1857-1939)は、現在のスロヴァキア出身のドイツ系で、ピアノ教師をしていました。
幼いころのバルトークは病気がちで、母親のそばを離れようとしなかったと言います。しかし、母親の弾くピアノ曲は、言葉を話す前から覚え理解していました。4歳のころには自己流でピアノを弾くようになったので、パウラは、バルトークにきちんとした音楽教育を施すことにします。この頃、妹エルジェーベト(エルザ[1885-1955])が生まれました。
ピアノを弾く人のイラスト
この頃、バルトークは初めてのコンサートに出かけます。父の所属するオーケストラが、ロッシーニの「セミラーミデ」序曲を演奏しました。これは、コンサートホールではなく、レストランで食事の添え物としてのコンサートでしたが、バルトークは、「こんなに素晴らしい音楽が演奏されているのに飲み食いするとは何事だ」と思ったそうです。
母からのピアノレッスンは、1886年のバルトーク5歳の誕生日から開始されました。1ヶ月もすると、父親と連弾ができるまでに上達します。しかし、病弱さが上達を妨げることもしばしばでした。
そんな中、1888年、父ベーラが急死します。家計はパウラのピアノ教師の収入だけが頼りとなってしまいます。一家は移住を決意し、ナージセレーシュ(現在のウクライナ領ヴィノフラージウ)に向かいます。ここで、バルトークはピアノ曲などの作曲を手掛けます。パウラは息子の才能を信じ、色々な人に見せたり学校に入れたりしますが、なかなかうまくいきませんでした。1892年5月1日、バルトークはナージセレーシュで最初の公開演奏を行います。彼は、ベートーヴェンの「ワルトシュタイン」第1楽章の他、自作の「ドナウ河の流れ」も披露されました。拍手喝さいを集めたのは、言うまでもありません。
1892年、バルトークはポジョニ(現在のブラチスラヴァ)で、エルケル・ラースロー(1845-1896)にピアノと和声学を学びます。エルケルは、父フェレンツ(1810-1893)も、兄弟たちギュラ(1841-1909)やシャーンドル(1846-1900)も、はたまた祖父曽祖父も音楽家という家系に生まれました。父たちほど有名ではありませんでしたが、ラースローも優れた教師でした。
パウラの仕事の関係で、ようやくポジョニに定住できたのは1894年で、そこのギムナジウムに通い始めます。ポジョニは大きな都市で、文化的にも優れていました。この地で、様々な人と出会い、他の人と共に演奏するという機会をたくさん得ます。また、コンサートやオペラの低価格のチケットを入手し、色々な音楽に触れることもできました。中でも強烈な印象を与えたのは、ヨハネス・ブラームス(1833-1897)の音楽でした。自ら演奏会に出演することもあり、エルケル先生がそれを聴き、たいそう喜んだとか。またギムナジウムの先生が、自分の息子ドホナーニ・エルネー(エルンスト・フォン・ドホナーニ[1877-1960])をバルトークに引き合わせます。ドホナーニは、指揮者クリストフ・フォン・ドホナーニのおじいさんで、後に作曲家、ピアニストとして名を成しますが、当時はまだ10代後半。3歳ほどの年の差はありましたが、二人は意気投合し、お互いピアノを弾いたり、作曲した作品を聴かせ合ったりしました。ドホナーニのピアノ五重奏曲をバルトークは気に入り、バルトークの「ドナウ河の流れ」をドホナーニは気に入りました。この曲はお互いの名声を広げるのに大いに役立ちます。
その後、ドホナーニはブダペストのハンガリー王立音楽院(現在のフランツ・リスト音楽院)で研鑽を積むためポジョニを去ります。また1896年にはエルケル先生が亡くなります。バルトーク母子は、今後の音楽教育をウィーンに見いだし、良い教師を求め出掛けます。ウィーンの音楽院の教授の前で自作などを弾くと、その教授はギムナジウム卒業後の入学を約束し、授業料免除のほか、皇帝からの奨学金も得ることができると告げます。母子は喜びポジョニへ戻ります。そんなある日、ブダペストからドホナーニが帰ってきました。再会を喜び、ウィーンで学べることになりそうだと告げるバルトークに、ドホナーニは驚くべき言葉を投げかけます。「リストの弟子からリストの教えた学校でピアノを習わないか?リストはハンガリー人だ」と。私たちはフランツ・リスト(1811-1886)として認識していますが、アイデンティティはハンガリーであり、名前もリスト・フェレンツなのでした。そのことを思い知らされたバルトークはたいそう悩みますが、ブダペスト行きを決めリストの弟子と名乗る教授の前でピアノを演奏します。その教授もバルトークの入学を、入学試験免除という待遇で、快く許可しました。バルトークはウィーン行きをきっぱりと棄て、卒業後の進路を、先輩と同じハンガリー王立音楽院と決めます。
ギムナジウムを卒業したバルトークは、ブダペストへ赴き、リストの弟子であるトーマン・イュトヴァーン(1862-1940)に師事し、さらに研鑽を積みます。トーマンは弟子たちに、自宅を訪れる音楽家などの来客の前でしばしば演奏させ、コンサートでのマナー「あがる」ことのないよう訓練させました。作曲はハンス・フォン・ケスラー(1853- 1926)に師事しました。音楽院にはリストが残したワーグナーのスコアが収められており、バルトークも驚愕のうちに眺めたと言います。しかし、ケスラーの勧めるワーグナーは、バルトークにとっては新しい指針となるものではありませんでした。
トーマン先生は時々、コンサートのチケットをそっと手渡してくれました。1902年リヒャルト・シュトラウス(1864-1948)の交響詩「ツァラトゥストラはこう語った」を聴いたときには、身体に電光が走ったと述べています。それまでピアノに打ち込んでいてあまり作曲に勤しんでこなかった彼が、再び作曲に目を向けることになるきっかけのコンサートでした。また、同じシュトラウスの交響詩「英雄の生涯」を研究し、ピアノ用に編曲。皆の前で演奏しました。
これらの成果の結晶として、1903年には交響詩「コシュート」を作曲。大いに世間をざわつかせます。この作品は、1848年に起こったハンガリー独立運動(ハンガリー革命)の指導者コシュート・ラヨシュ(1802-1894)を主題にしたもので、最終的にハンガリーがオーストリアからの独立を果たせず、オーストリア国歌が歪曲された形で取り入れられ、悲劇的に終わるものでした。1904年に初演の運びとなります。リハーサルでオーストリア系の奏者が演奏を拒否する場面もありましたが、初演は大成功。ハンガリーの民族衣装を着て現れたバルトークに、聴衆は拍手喝さいを送ったのでした。この作品は、イギリス・マンチェスターでも演奏され、ピアノ演奏も披露したバルトークのイギリスデビューともなりました。
この1904年は、バルトークにとって一つの指針を決める年でもありました。ある時あるリゾート地を訪れたバルトークは、子どもをあやす子守の歌を聴き興味を持ち、それを採譜します。この何気ない民族音楽こそがバルトークのライフワークとなり、発明されたばかりの録音機を持ち歩き、ハンガリー、スロヴァキア、ルーマニア、ブルガリア、アフリカ北部などで、その土地土地の民族音楽を録音、研究しました。また、この年に作曲された「ピアノのための狂詩曲」に、記念すべき「作品1(op.1)」が与えられています。
1903年に音楽院での研鑽を終了すると、1905年にパリで開かれたルビンシュタイン音楽コンクールピアノ部門作曲部門で出場しました。しかし彼が思い描いていたような結果は得られず、ピアノ部門で第2位(第1位はヴィルヘルム・バックハウス[1884-1969]でした)で、作曲部門では、5人受けた全員が賞に入りませんでした。更に不名誉なことに、功績証が与えられたのですが、第2席でした。これはバルトークを大いに落胆させることになります。バックハウスの第1位は、自身も認めるところでしたが、功績証第2席は、全くと言っていいほど受け入れられず、不満を述べた文が残されています。とはいえ、パリはバルトークを大いに魅了しました。
バルトークは、シャーンドル・エンマ(1863-1958)を介してコダーイ・ゾルターン(1882-1967)と知り合います。1906年、コダーイとともに「声楽とピアノのための20のハンガリー民謡」を出版します。二人は1907年に母校のハンガリー王立音楽院の教授となりました。バルトークはトーマンの後任としてピアノ、コダーイは作曲を担当しました。これにより、演奏旅行に出かける必要もなくなり、休暇に民族音楽採取に出かけることができるようになります。1908年にコダーイは、ケスラーの後任として作曲科主任となります。
この頃、バルトークは、ゲイエル・シュテフィ(1888-1956)というヴァイオリニストと恋に落ち、ヴァイオリン協奏曲第1番を作曲し、彼女に献呈します。しかし、彼女とは破局を迎え、その楽譜も演奏されることはなく、彼女のもとで封印されてしまいます。仕方なくバルトークは、二つの楽章から成るこの協奏曲のうち、最初の楽章に新たな1楽章を加えて「2つの肖像」という曲に仕立てています。転用された楽章には「理想的なもの」、続く楽章には「醜いもの」という副題が付けられています。理想として残された彼女、幸せですね。ゲイエルの死後、楽譜が「発見」され、1958年に初演されています。
彼のクラスに、ブダペストの警部の娘、ツィーグレル・マルタ(1893-1967)が入ってきます。二人は1909年に結婚。翌1910年には長男ベーラ・ジュニア(1910-1994)が生まれます。
1911年、バルトーク唯一のオペラである「青ひげ公の城」を作曲。これは、かつてコダーイのルームメイトだった、バラージュ・ベーラ(1884-1949)が作詞し、コダーイに作曲を勧めたものでした。バラージュの名は現在、映画芸術関連の業績に対して贈られる「バラージュ賞」として遺っています。しかしコダーイは「共感できない」として作曲しませんでした。しかしバルトークは興味を覚え、一幕物のオペラ作曲コンクールに出品する思惑もあり、この台本に作曲します。しかし、登場人物が二人しかいないことに加え、場面転換がないことや内容を批判され、入選どころか演奏すらされませんでした。バラージュの名前を伏せるよう言われたこともありました。このオペラについては、後で詳しくお話しますね。
バラージュの政治的立場の危うさもあり、バルトークは音楽院教授以外の公職を辞し、政治的な関わりを断ちます。ますます民族音楽採取に没頭し、この頃北アフリカにも出かけています。
1914年に第一次世界大戦が始まります。民族音楽採取どころではありません。バルトークは作曲にいそしみ、バラージュの台本によるバレエ「かかし王子」に取り組みます。劇場は「青ひげ公の城」とは打って変わって、「かかし王子」初演を作品が完成後すぐに行いました。ただ、劇場付きのハンガリー人指揮者は誰一人として指揮しようとせず、1913年から19年にブダペスト歌劇場に客員していたイタリア人指揮者エギスト・タンゴ(1873-1951)が、「他の作品の指揮をなげうってでも指揮しよう」と意気込みます。1917年5月12日にブダペスト歌劇場で行われた初演は、大成功をおさめます。「青ひげ公の城」とは違い、色彩豊かで場面転換もあるこの作品は、聴衆から受け入れられました。
こうなると、「青ひげ公の城」も演奏せざるを得なくなった劇場は、翌1918年5月24日にブダペスト歌劇場で初演されました。この公演は、両方とも1時間余りの作品であることから、「かかし王子」とダブルビルで上演されています。この時の評判は、「青ひげ公の城」の方が上だったようです。この公演でタンゴが指揮を執ったのは言うまでもありません。この成功によりウィーンの楽譜出版社とのつながりもでき、楽譜という形で世に広められることとなります。この頃、トーマン先生の薦めもあり、3つ目の舞台作品となる「中国の不思議な役人」の作曲が開始されます。
1918年、第一次世界大戦が終結すると、オーストリア=ハンガリー帝国は消滅し、ハンガリー王国も終焉を迎えます。これによりハンガリーは動乱期に突入します。ハンガリー民主共和国が成立しますが、国内の共産党勢力によるクーデターにより崩壊、ハンガリー社会主義連邦ソビエト共和国が誕生します。しかしこれも長続きせず、ハンガリー共和国が成立します。しかしこれも消滅。1920年にハンガリー王国として王政復古となります。しかし、戴く王が不在のため、ホルティ・ミクローシュ(1868-1957)を摂政として政治を行いました。
「グロテスクなパントマイム」と副題の付いた「中国の不思議な役人」は、ハンガリーの劇作家であるレンジェル・メニヘールト(1880-1974)の台本によるものでした。「青ひげ公の城」初演の翌月にはスケッチの段階まで完成し、レンジェルに聴かせましたが、政情不安定な環境でしたので、完成は1925年になってしまいました。レンジェル自身「何かの目的があってこの作品を手掛けたわけではない」と語っているのと同様、バルトークも初演される見込みは薄いと感じていました。
この間、ハンガリー王立音楽院出身のヴァイオリニスト、ダラーニ・イェリー(1893- 1966)とイギリスやフランスへ演奏旅行に出かけます。彼女と演奏するために、ヴァイオリンソナタ第1番と第2番を作曲。大きな成果を上げたばかりではなく、色々な名士と知り合うことができました。さらに1922年には、「青ひげ公の城」と「かかし王子」がフランクフルトで上演。これは、バルトークの劇場のための作品が初めてハンガリー以外で上演されたものでした。
1923年、13年余り連れ添ったマルタと離婚。その原因は、パーストリ・ディッタ(1903-1982)でした。彼女は音楽院のピアノ専攻でバルトークのクラスに入ってきました。前妻も後妻も彼の生徒で、二人ともまだ10代でした。翌年には次男ペーテル(1924-2020)が生まれます。ペーテルは後年、父の遺した作品を録音し広く紹介したほか、楽譜を正確な形で再出版しました。
1923年、ブダペスト市成立50周年記念音楽祭で演奏するための新作を市から依頼されます。これはドホナーニコダーイにも依頼されていました。バルトークは、「舞踏組曲」を作曲。1923年11月19日、ドホナーニの指揮で、ドホナーニの「祝典序曲」、コダーイの「ハンガリー詩篇」とともに初演され、好評を得ます。「舞踏組曲」は、1年余り後にプラハで、その後ヨーロッパ各地で50回以上演奏されるヒット作となりました。
さて、ブダペストでの上演は頓挫し、宙ぶらりんになっていた「中国の不思議な役人」ですが、ドイツのケルンでの初演が決まります。ここでも、「青ひげ公の城」とのダブルビルでした。1926年11月27日にケルン歌劇場で行われた初演を指揮したのは、当時の音楽監督シェンカル・イェネー(ドイツ名:オイゲン・シェンカー[1891-1978])でした。シェンカルは、バルトークのことを天才と思っており、この作品の良さを信じて疑わず、バルトークも満足いく準備が出来上がっていました。しかし、初演は大不評。内容も音楽も受け入れがたいと判断されてしまいます。さらに悪いことに、当時のケルン市長(後の西ドイツ首相)コンラート・アデナウアー(1876-1967)から呼び出され、「なぜあんなくだらないものを指揮したんだ」と詰問され、上演禁止を言い渡されてしまいます。実際、観客の多くがわざとドアをバタバタさせて会場を去ったり、口笛を鳴らしたりといった嫌がらせをしたとのこと。この後、プラハでの上演もささやかな成功に留まります。バルトークはこの作品を延命させるべく、全体を縮小した「組曲」に編みなおし、オーケストラの演奏会用のプログラムとして採用できるようにしました。
1926年は、自身の演奏旅行のためにピアノ曲が多く作曲されています。その中にはピアノ練習曲として書かれた「ミクロコスモス」や「ピアノソナタ」、「ピアノ協奏曲第1番」も含まれています。ピアノ協奏曲第1番は翌1927年7月1日、フランクフルトにて20世紀最大最高の指揮者ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(1886-1954)の指揮、彼自身のピアノによって初演されています。その後彼の訪問範囲は広がり、知識人との交流も広がります。
CD1
1934年、長年勤めた音楽院の職を辞し、ハンガリー科学アカデミーに籍を置き、民俗音楽の整理に時間をあてます。1936年、パウル・ザッハー(1906-1999)から依頼を受け、「弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽」を作曲します。この時期、トルコからの招待を受け、ハンガリー音楽のルーツを探るべくトルコへと向かいます。「弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽」は、翌1937年にザッハーの指揮、バーゼル室内管弦楽団の演奏で初演され、大きな反響を得ます。この曲にはピアノが使用されているのですが、メロディー楽器というよりは打楽器として扱われており、曲名にもピアノは出てきません。そのあたりも、反響を呼んだ要因の一つでしょう。
ハンガリーのヴァイオリニスト、セーケイ・ゾルターン(1903-2001)の依頼があり、ヴァイオリン協奏曲第2番が作曲されました(バルトークの生前は、単にヴァイオリン協奏曲と呼ばれていました)。バルトークは、単一楽章の変奏曲として作曲しようとしましたが、ケーセイは伝統的な三楽章形式を望みました。バルトークは、第3楽章を第1楽章の主題を使った変奏曲形式としても見ることのできるよう作曲しています。また、第1楽章には半音のさらに半音(四分音)も使われています。バルトークは、四分音を念頭として使ったと言うよりは、揺れ動く音(うねり)を表現するために使ったと思われます。
スコア
ヴァイオリン協奏曲第2番の楽譜の一部。四分音の出てくる部分の一部。
「レ」の音を中心に、「レとドのシャープの間の音」「レとミのフラットの間の音」を行き来しています。
この時期になると、ナチスの台頭に芸術家たちは翻弄され始めます。バルトークはナチスを毛嫌いしていたので、ドイツでの演奏を拒否するようになります。また、イタリアも嫌悪の対象でした。その上ハンガリーがドイツ寄りであることも好ましく思っていませんでした。彼に入る収入のうち放送料も含まれていましたが、ドイツやイタリアでの放送を拒否していたので、そのための減収はかなり響いたと言われています。
1938年、ついにオーストリアはドイツに併合されます。ウィーンの楽譜出版社に出版を依頼していたバルトークですが、出版の目途が立たなくなります。幸いなことにロンドンの出版社が救いの手を差し伸べ、これ以降はロンドンの出版社が彼の作品を請け負うことになります。その後ザッハーからの依頼を受け、「弦楽のためのディヴェルティメント」を作曲します。
楽譜表紙
ザッハーから依頼された二作品の楽譜。左はウィーン、右はロンドンの出版社の楽譜。
1939年、いよいよ政情が不安定になると、旧知を頼ってトルコへの移住を考えますがうまくいきませんでした。この年のクリスマス前に母パウラが亡くなります。これでハンガリーに残る理由がなくなります。翌1940年アメリカへの演奏旅行が最後のきっかけとなり、10月にブダペストでさよなら演奏会を行った後、リスボンからアメリカへ移住します。この時、遺言状までしたためたと言います。今のように飛行機が頻繁に飛んでいるわけではないので、ブダペストからリスボンまでの移動も大苦労だったとか。
苦労の末たどり着いたアメリカ。コロンビア大学から民族音楽研究の名誉博士号を授与され、客員教授として迎えられます。アメリカでの生活は、バルトークにとって必ずしも快適とは言えませんでした。大学での講義のかたわら、民俗学の研究に打ち込んだり演奏活動を行ったりしましたが、作曲はほとんどしませんでした。アメリカにいる友人たちはそんなバルトークを心配し、作曲の依頼を行います。そんな中で生まれたのが、「管弦楽のための協奏曲」「無伴奏ヴァイオリンソナタ」でした。
1943年、バルトークを病魔が襲います。その当時不治の病として恐れられていた白血病でした。それでも最後の力を振り絞り、「管弦楽のための協奏曲」を作曲。1944年に初演され、大きな成功をおさめます。しかし、彼の余命はもうわずかでした。1945年9月26日にニューヨークのブルックリン病院で亡くなります。この時手掛けていた「ピアノ協奏曲第3番」は、ほぼ完成させることができましたが、「ヴィオラ協奏曲」は骨格だけが残され、後に弟子が補筆しています。
CD2
「ナチスや共産主義の残る地には埋葬してほしくない」という遺言により、アメリカ、ニューヨーク州のファーンクリフ墓地に埋葬されます。しかし、ハンガリーが旧ソ連の呪縛から解き放たれたことから、1988年にハンガリーに改葬されることになり、国葬をもってブダペストのファルカシュレーティ墓地に埋葬されました。この時尽力したのが、指揮者のゲオルク・ショルティ(1912-1997)でした。ショルティは今、バルトークの隣りに埋葬されています。

几帳面なバルトーク!?

バルトークの楽譜を見ると、とても几帳面だったことがうかがえます。バルトークの楽譜には、ほとんど全てに演奏時間が書かれています。普通は楽章ごとに〇分○○秒と書かれることが多いですが、バルトークは、楽章の途中にも「ここまで△分△△秒」とかなり頻繁に書かれています。とはいえ、バルトークの遺した録音を聴くと、必ずしも表記時間で演奏しているわけではないことに気付きます。どうしたらいいの、バルトーク先生!!!
バルトークの楽譜
「弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽」の楽譜最終ページ。二重線より左は、第4楽章のそれぞれの部分の演奏時間、右は第1から第4楽章それぞれの演奏時間とトータルの演奏時間。「ca(=circa)、約」とは付いていますが。
ハンガリー生まれの指揮者アダム・フィッシャーによるバルトーク集。有名どころのオーケストラ曲を聴くことができます。若くして亡くなったウィーンフィルの名コンサートマスター、ゲルハルト・ヘッツェル(1940-1992)のソロが聴けるのも嬉しいところ。
CD3

バルトークのオペラ

青ひげ公の城

青ひげ公の話は、シャルル・ペロー(1628-1703)が確立したと言われています。簡単に話すと、「ある娘が、不気味な青ひげを生やした男と結婚し妻となる。この男は過去に6回結婚したはずだが、妻たちは皆行方不明。ある日男は、妻に鍵の束を渡し、どの部屋を開けてもいいが、この扉だけは開けるなと言い残し、旅に出る。夫の留守中、妻は開けてはいけない扉を開けてしまう。そこには殺されて吊るされた前妻たちの死体が。帰ってきた男は、秘密を知られたことに怒り、妻を殺そうとする。間一髪のところで妻の兄たちが助けに来て、男は成敗される。」といったもの。これを原作として、フランスで活躍した作曲家アンドレ・グレトリ(1741-1813)がオペラ「青ひげラウル」を、ドイツで活躍した作曲家エミール・フォン・レズニチェク(1860-1945)がメルヘンオペラ「騎士青ひげ」を、オペレッタの大家ジャック・オッフェンバック(1819-1880)は、かなりのパロディを含んだオペレッタ「青ひげ」を作曲しています。
Akhv
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「青ひげ公の城」初演時
(1918年5月24日ブダペスト歌劇場)のポスター
ペローの作をもとに、ベルギーの詩人、劇作家のモーリス・メーテルリンク(1862-1949)が手がけた戯曲があり、これをフランスの作曲家ポール・デュカスオペラ「アリアーヌと青ひげ」として作曲しています。バルトークも、どちらかというとメーテルリンクの戯曲をもとにしたバラージュの台本に作曲しています。
あらすじ
プロローグ
吟遊詩人の前口上。これから起こる物語の聴き方を語る。これは他人事ではなく自分自身についての話だと。
青ひげ公は新しい妻にユディットという娘を選び、自身の城へ連れてくる。内部は広いが窓もなく暗くじめじめしており、7つの大きな扉が見える。「引き返すのは今しかない」と告げる青ひげ公に、ユディットは「あなたに付いて行く」と言う。外に続く扉は閉ざされる。ユディットは扉を開けて城に風や光を入れるよう頼むが、青ひげ公は拒絶する。ユディットが第1の扉を叩くと、ため息のような音が聞こえる。青ひげは鍵を渡す。
城のイラスト
第1の扉 赤
そこは拷問部屋。ユディットは、壁から噴き出す血におののく。青ひげ公の心配をよそに、ユディットは差し込む朝の光の流れに喜ぶが、青ひげ公は血の流れだと言う。ユディットは次の鍵を要求する。
第2の扉 赤黄色
そこは武器庫。その武器には全て血が付いている。城内の光は増える。ユディットは、さらに鍵を要求する。青ひげ公は「これ以上何もたずねないこと」と忠告し、3本の鍵を渡す。
第3の扉 金色
そこは宝物庫ダイヤモンドや宝石にユディットは狂喜する。しかしそれら全てに血が付いている。青ひげ公は、次の扉を開けるよう促す。
第4の扉 青緑色
 そこは秘密の庭園。たくさんの花々に、ユディットはこんな花園は見たことがないと喜ぶ。しかし白いばらの根元には血が付いており、土は血に染まっている。青ひげ公は城が明るくなったと言い、第5の扉を開けるように言う。
第5の扉 きらきらと輝く色
バルコニーから広大な青ひげ公の領土が見える。放心するユディット。その風景は美しいが、血のように赤い雲が見える。青ひげ公はユディットに近付くが、ユディットは、開いていない扉があるのが許せず、残り2つの扉を開けるよう迫る。青ひげ公は一つ鍵を渡す。扉からはすすり泣くようなため息が聞こえる。
第6の扉 白
白い湖。それは涙の湖。ユディットは、呆然とする。青ひげ公はユディットを抱き寄せる。青ひげ公は、最後の扉は閉めたままにしておこうと言うが、ユディットは以前に愛した女性のことを問う。そして、今までの扉の中やこれまでの噂はユディットを不審がらせ、最後の扉を開けなければいられない状況に陥る。青ひげ公は絶望し、最後の鍵を渡す。
第7の扉 青白
三人の前妻が現れる。青ひげ公はひざまずき、それぞれを「夜明け」「真昼」「夕暮れ」に見つけたと言い、彼女たちがそれぞれの時を支配していると告げる。ユディットは、自分のみすぼらしさを恥じる。青ひげ公はユディットに「真夜中にお前を見つけた」と言い、夜を彼女のものとする。ユディットは、青ひげ公から豪華な衣装や宝石類を与えられ、四人目の妻として他の妻たちとともに第7の扉に入って行く。扉が閉まると、青ひげ公は「もうすべてが夜だ…」とつぶやき、暗闇のなかに消える。
******************************************
ペローの原作は、青ひげ公がいない間に、渡された鍵で扉を開ける設定ですが、メーテルリンクは、青ひげ公が場内にいる設定であり、バラージュの台本に至っては、一緒に鍵を開けていくという状況になり、「つるの恩返し」的な「開けちゃダメ」という設定はもはやなくなっています。

「青ひげ公の城」上演

6月に、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場管弦楽団の来日公演があり、そこで演奏会形式ですが上演があります。東京と兵庫の2ヶ所での上演。組み合わせとして、ワーグナーの「さまよえるオランダ人」序曲と、ドビュッシーの「ペレアスとメリザンド」組曲が演奏されます。ペレアスとメリザンド青ひげ公、両方ともメーテルリンクがらみですね。
兵庫 兵庫県立芸術文化センター KOBELCO大ホール
2024年6月22日
東京 サントリーホール
2024年6月25日、27日
詳しくは、METオーケストラ来日公演詳細ページをご覧ください。
https://www.met-japan-tour.jp/

参考CD

指揮:ベルナルト・ハイティンク
ユディット:アンネ・ゾフィー・フォン・オッター
青ひげ公:ジョン・トムリンソン
吟遊詩人:シャーンドル・エレス (1996年録音)
フォン・オッターのユディットが素晴らしいCDです。もちろん、トムリンソンも得意なヴォータンとは違う、影だらけのこの役を上手く表現しています。また、ベルナルト・ハイティンク(1929-2021)も、このオペラを陰影深く表現しています。これがライヴ録音とは信じられません。
CD3
「青ひげ公の城」は正味1時間ほど、CDでも1枚で収まってしまいます。オペラ一晩には、何かと組み合わせて上演することが多いです。先生が最初に観た公演は、前半がバルトークのピアノ、後半がこのオペラでした。次は新国立劇場中劇場での公演で、なんとこのオペラだけでした。演出はベルリン・ドイツ・オペラからの借用でゲッツ・フリードリヒ(1930-2000)のものでした。ベルリンではシェーンベルクの「期待」とのダブルビルだったので、それを期待しましたが、大人の事情なのか、これだけでした。この公演の年の12月、フリードリヒは他界するので、両方上演してほしかったと思います。
プログラム表紙
プログラム