【ふじやまのぼる先生のオペラ解説(34)】
このオペラ、初演は1797年。シューベルトが生まれた年でもあります。そんなオペラが今回日本初演されます。226年越しの快挙!
*イタリア語の発音では「メデーア」が正確ですが、今回の日生劇場の表記に合わせて、「メデア」と書き進めます。
ルイージ・ケルビーニ(1760-1842)という作曲家を知っていますか?1760年9月14日、イタリアのフィレンツェで生まれた彼は、生地のペルゴラ劇場のチェンバロ奏者だった父から音楽の手ほどきを受け、ボローニャやミラノで研鑽を積みます。その時の先生はジュゼッペ・サルティ(1729-1802)でした。サルティ、覚えていますか?モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」の中で、引用された2つのオペラのうちの片方の作曲家です。
モーツァルト作曲「ドン・ジョヴァンニ」 Don Giovanni(歌詞:イタリア語) vol.2
(オペラコンクールブログ「トリッチ・トラッチ」より)
https://www.suac.ac.jp/opera/blog/2021/07/00063/
(オペラコンクールブログ「トリッチ・トラッチ」より)
https://www.suac.ac.jp/opera/blog/2021/07/00063/
サルティの指導で、最初のオペラを作曲。その後ロンドンでもオペラを発表、成功を得ます。そして1788年に一念発起し、パリに定住します。先輩イタリア人作曲家のジョヴァンニ・バッティスタ・ヴィオッティ(1755-1824)の後援もあり、マリー=アントワネット(1755-1793)の寵を得て、1789年にパリのテアトル・ド・ムッシューのディレクターになることができました。この仕事を通して、多くのフランス語の台本に接し、フランス語のオペラを書く勉強になります。
まもなくフランス革命が勃発。劇場は1791年にフェドー通りに移転します。テアトル・ド・ムッシューの「ムッシュー」は後にルイ18世(1755-1824[在位:1814-1815、1815-1824])となるプロヴァンス伯爵の事だったため、名前をテアトル・フェドーと改めます。革命の最中ではありますが、ケルビーニはこの劇場で、革命に即したオペラ「ロドイスカ」を1791年7月18日に初演。大きな成功を得て、彼の出世作となります。「ロドイスカ」は、「救出オペラ」と呼ばれる内容です。囚われの乙女を助け出すこのオペラは、のちにベートーヴェンの「フィデリオ」に繋がります。
リッカルド・ムーティ指揮の「ロドイスカ」。ミラノ・スカラ座での録音です。
今回取り上げる「メデア(メデ)」も、革命終了後の1797年3月13日に、1800年1月16日には「二日間(または水運び人)」という救出オペラが、どちらもテアトル・フェドーで初演されています。
不世出の名テノール、フリッツ・ヴンダーリヒ(1930-1966)の参加している「二日間」のCD。台本は、「フィデリオ」の原作者ジャン・ニコラス・ブイイ(1763-1842)です。ドイツ語歌唱でどうぞ。
この頃ウィーンでは、ケルビーニのオペラが上演され人気を得ていました。そこで1805年にケルビーニはウィーンに招かれ、新作を指揮し初演したほか、ハイドンやベートーヴェンとの邂逅を得ます。一説には、ベートーヴェンの最初の「フィデリオ」を観劇したともいわれています。人を褒めないベートーヴェンが偉大なオペラ作曲家としてケルビーニの名を挙げています。
パリに戻ったケルビーニでしたが、当時の皇帝ナポレオンとの不和や健康問題、パリの劇場事情もあり、宗教音楽の作曲にのめり込み、その結果少なくとも6曲のミサ曲やハ短調とニ短調のレクイエムを遺しました。ルイ18世やシャルル10世(1757-1836[在位:1824-1830])の戴冠式のためのミサ曲や、ルイ16世(1754-1793[在位:1774-1792])追悼のためのレクイエムといった、機会的な作品もありましたが、もっぱらは自分の平穏のために作曲したと先生は考えます。また、ベートーヴェンは「もしレクイエムを作曲しなければならないとしたら、参考にするのはケルビーニのハ短調」と言っています。同様に、シューマンやブラームスなどもケルビーニのレクイエムを絶賛しています。ケルビーニのミサ曲やレクイエムは、ムーティがまとまった録音をしています。心が洗われるような静謐な音楽です。
1815年にはロンドンのフィルハーモニック協会から委嘱され、交響曲や序曲などの作品を作曲。ロンドンで演奏され、彼の名声は国際的なものになります。
1822年、パリ音楽院の院長に就任。後進を育てることに心血を注ぎます。高弟と共に「対位法とフーガ講座」や「和声の反復進行講座」などの著書を遺しました。そして1842年3月15日、81年の生涯をパリで閉じました。
「メデア」
原作はエウリピデス(BC480頃-BC406)の「メデイア」、ピエール・コルネイユ(1606-1684)の「メデ」を下敷きにフランソワ=ブノワ・ホフマン(1760-1828)とニコラ・エティエンヌ・フラメリー(1745-1810)がフランス語で台本を書き、「メデ」としてセリフの入る「オペラコミック」として作曲されました。パリでは初演後、玄人受けする作品のため、20回ほどで打ち切られてしまいました。
パリではあまり受けなかった作品でしたが、ドイツ語圏では、ドイツ語訳によりかなりの上演があったようです。1855年にフランクフルトで上演される際、フランツ・ラハナー(1803-1890)がセリフをレチタティーヴォに作曲しなおします。
イタリアでの初演は遅く、1909年にミラノ・スカラ座で行われました。この時、ラハナーのレチタティーヴォを使い、カルロ・ザンガリーニ(1874-1943)によるイタリア語訳による上演でした。これ以降この上演方法が一般的となります。今回の、日生劇場での上演も、この方法によっています。この時メデアを歌ったのは、ソプラノのエステル・マッツォレーニ(1883-1982)でしたが、あまり成功したとは言い難い結果に終わります。
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あらすじ
あらすじ
古代 コリント(ギリシャ)
物語の前の物語
イオルコス王のアイソンは、異父兄弟のペリアスに王位を奪われた。そこで自分の息子のジャゾーネは死んだと偽り、山の賢者に預ける。成長したジャゾーネは、王位奪還のために故郷へ向かう途中、川の前で困っている老女を背負って川を渡る。その時、片方のサンダルを失ってしまう。
ペリアスは、神託で「片足だけのサンダル男に注意」と言われていたため、ジャゾーネが現れたとき、「コルキスの金羊毛を持ってきたら王位を譲る」と、難題を出す。
勇士を集めたジャゾーネは、アルゴー号に乗ってコルキスに向かう。様々な苦難を乗り越えてコルキスに辿り着き、コルキス王のアイエテスに金羊毛を渡すよう願い出る。アイエテスもジャゾーネに難題を出すが、ジャゾーネに恋する王の娘のメデアの助けで成功させる。金羊毛を渡したくないアイエテスは、ジャゾーネたちを殺そうとするが、再びメデアの助けで金羊毛を奪い取る。
ジャゾーネはメデアを連れて勇士たちとコルキスを出発。アイエテスの妨害もメデアの助けで危機を脱し、故郷に戻る。金羊毛を渡してもペリアスが王位を譲らないため、ペリアスの娘たちを騙して父親を殺させる。その罪からジャゾーネとメデアは国外追放になり、コリントで暮らすが、ジャゾーネはコリントの王女グラウチェに恋する。
第1幕 クレオンテの宮殿の入り口
国王クレオンテはジャゾーネに、娘のグラウチェを嫁がせることにする。まもなく二人の結婚式。宮殿は華やいでいる。しかしグラウチェは、ジャゾーネの前妻メデアの存在に、心は沈んでいる。その気持ちを打ち払うかのように、アリア「おお、愛の神よ来て」を歌い、愛の神に祈る。
国王クレオンテはジャゾーネに、娘のグラウチェを嫁がせることにする。まもなく二人の結婚式。宮殿は華やいでいる。しかしグラウチェは、ジャゾーネの前妻メデアの存在に、心は沈んでいる。その気持ちを打ち払うかのように、アリア「おお、愛の神よ来て」を歌い、愛の神に祈る。
ジャゾーネと現れたクレオンテは、グラウチェを慰め、ジャゾーネとメデアとの間にできた二人の子どもを保護したと伝える。ジャゾーネはコルキスで手に入れた金羊毛など、数々の宝物を披露する。グラウチェはコルキスと聞くと「メデアの地」と恐れおののく。ジャゾーネは、アリア「私の恥であり涙であった」を歌い、メデアとはもう会わないと約束する。
そこに突然メデアが現れる。人々が驚く中、メデアはジャゾーネが自分を裏切ったことを責める。グラウチェは気を失い、クレオンテは、アリア「この場所を恐れよ」を歌い、メデアを魔女と罵り、侍女たちとグラウチェをかばいながら宮殿の中に去る。
ジャゾーネと二人きりになったメデアは、アリア「あなたの子どもたちの母親は」を歌い、奪われた二人の子供のことを泣いて訴える。ジャゾーネは冷たく拒むので、メデアの様子は豹変し、二重唱「情けを知らぬ敵たち」を歌い、二人の応酬のうちに幕となる。
第2幕 クレオンテの宮殿の回廊
メデアが怒り狂って階段を下りてくる。クレオンテはメデアに国外追放を命じる。メデアは二重唱「せめて哀れと思って」を歌い、追放だけは思いとどまるよう懇願するが、クレオンテは承諾しない。「それなら1日の猶予を」と訴えるのでクレオンテは譲歩する。侍女ネリスはアリア「あなたと一緒に泣きましょう」を歌い、メデアの不運を同情し慰める。
メデアが怒り狂って階段を下りてくる。クレオンテはメデアに国外追放を命じる。メデアは二重唱「せめて哀れと思って」を歌い、追放だけは思いとどまるよう懇願するが、クレオンテは承諾しない。「それなら1日の猶予を」と訴えるのでクレオンテは譲歩する。侍女ネリスはアリア「あなたと一緒に泣きましょう」を歌い、メデアの不運を同情し慰める。
怒りに燃えるメデアだが、ジャゾーネが来るので怒りを収め、二重唱「私の子ども、私の宝」を歌い、子どもたちに会わせてほしいと訴える。ジャゾーネは心打たれ、子どもたちを連れに宮殿へ去る。メデアは、グラウチェに婚礼の贈り物として魔法の王冠と打掛けを準備するようにとネリスに頼む。宮殿では、華燭の典が行われている。メデアは、復讐は近いとほくそ笑む。
第3幕 宮殿の近くの丘 神殿の前
ネリスに連れられた二人の子どもたちが、王冠と打掛けを持って現れ、宮殿に入って行く。丘から降りてきたメデアは、「地獄の神々よ、来たれ」と歌い、復讐の成就を願う。
ネリスに連れられた二人の子どもたちが、王冠と打掛けを持って現れ、宮殿に入って行く。丘から降りてきたメデアは、「地獄の神々よ、来たれ」と歌い、復讐の成就を願う。
子どもたちが戻ってくるが、その目がジャゾーネと同じなので短剣を振り上げ殺そうとするができず、アリア「激しい苦痛の」を歌い、子どもたちを抱きしめる。
やって来たネリスに、グラウチェの様子を聞くと、喜んで打掛けをまとっていたと報告する。その時、宮殿から恐怖の叫び声が聞こえてくる。グラウチェは打掛けから毒が回り焼けただれて死に、クレオンテも巻き込まれて焼死したという。
悲嘆にくれる人々を目にしたメデアは、二人の子どもと共に神殿に入り、子どもを殺したうえで、神殿に火をかける。ジャゾーネをはじめ、人々が恐怖に慄く中、幕となる。
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次回は、「メデアvsジャゾーネ」と題してお送りいたします。お楽しみに。
次回は、「メデアvsジャゾーネ」と題してお送りいたします。お楽しみに。
日生劇場での「メデア」
28日の公演には、第8回静岡国際オペラコンクールで三浦環特別賞を獲得した、城宏憲さんの出演があります。詳しくは、日生劇場のHPをご覧ください。
日生劇場「メデア」公演情報ページ
https://opera.nissaytheatre.or.jp/info/2023_info/medea/